見もの・読みもの日記

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歓待と休息/イン:イギリスの宿屋のはなし(臼田昭)

2009-03-28 00:40:17 | 読んだもの(書籍)
○臼田昭『イン:イギリスの宿屋のはなし』(講談社学術文庫) 講談社 2009.2

 東アジアに関する本を読んでいると、つい「勉強」の身構えになってしまうので、ときどき西欧世界に遊んで息抜きがしたくなる。いちばん居心地よく感じるのはイギリスである。これは「英文学者の日本語」が、私の性分に合うためかも知れない。

 本書が扱うのは、イギリスの宿屋――客から金銭をとって酒食を提供する場所である。宿泊施設をもっているものを「イン」と呼び(≒ホテル)、個室もしくはボックスを備え、酒ばかりでなく十分な食事を提供する能力を持ったものが「タヴァン」(≒レストラン)、もっぱら酒を主に提供する店を古くは「エールハウス」いまは「パブ」(パブリック・ハウス)と呼ぶ。これらは全て、本来、旅する人々の休息と宿泊のための施設であるけれど、話の内容は「必ずしも飛び切り上品なことばかり」とは限らない。詐欺師、追い剥ぎ、酔いどれ、喧嘩、椿事に艶事、幽霊に立身出世……近世(たぶん13世紀から18世紀くらい)のイギリス大衆社会の諸相が、豊かなユーモア、控えめな抒情をまじえて(つまり、いかにもイギリス文学的な筆致で)描き出されている。

 面白かったのは、屋号と看板の話。「かささぎと王冠」「かみそりと牝鶏」みたいに、全く無関係のものを組み合わせた屋号の大半は、「三井住友」や「東京三菱」と同様、合併から生じたのだそうだ。イン(馬車宿)の屋号が、現在の地下鉄の駅名に残っていることも多いのだそうで、ロンドンの「エレファント・アンド・カースル(象と城)」駅もその類いかな?と思って調べたら、これは、スペイン王「アルフォンソ・デ・カスティーヨ」の聞き間違いに由来するとか。

 イギリスの田園の道端、樹蔭にこぢんまりと立つ田舎のインの魅力を描いて、余人の追随を許さないのは、ディケンズだという。なるほど――短編『人生の闘い』に描かれた「ナツメグおろし」という屋号のインを描いた一節は、国境や文化の違いを超えて、旅好きの心をとろかす魅力にあふれている。

 「死場所を選ぶことができるとしたら、宿屋にしたい」と願ったイギリス人もいる。身内の者のおせっかいがましい情愛よりも、宿屋で受ける淡々とした世話のほうが好ましいからだという。いかにもイギリス人らしい嗜好で共感できる。逆に、イギリス小説で有名な「救貧院」という施設は、男女、老若、別棟の生活を強制するものだったため、当時の人々から嫌われ、いかに生活が苦しくても、明日の保証もない労働に汗を流しつつ、夜は安酒と仲間とのふれあいを求めてパブに集いあうのが貧窮者の望む生活だった。この心情にも掬すべきものがある。

 なお、イギリスの宿屋では、強制あるいは偶然によって、見知らぬ男女が相部屋になることもあったそうだ――もしや漱石の『三四郎』の挿話は、このへんを元ネタにしているのかな?なんてことも思った。
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