見もの・読みもの日記

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未完の青春/森鴎外展(神奈川近代文学館)

2009-06-09 23:54:19 | 行ったもの(美術館・見仏)
神奈川近代文学館 特別展『森鴎外展-近代の扉をひらく』(2009年4月25日~6月7日)

 10代~20代の頃、鴎外のよさは全く分からなかった。なんでこんな退屈な小説家を「文豪」なんて持ち上げるんだろう、と本気で思っていた。けれども、自分自身が40歳を過ぎて、それなりに世間の波風に当たり、あらためて作品を読んだり、新しい鴎外論を読んだりすると、だんだん、こいつは思ったよりもいい奴じゃないか、と感じるようになってきた。 

 森鴎外(1862-1922)は、言わずと知れた明治・大正期の小説家・評論家。大学卒業後、陸軍省派遣留学生としてドイツに渡った。このときの恋愛体験を描いたのが小説『舞姫』である。帰国直後、実際に鴎外を追ってきたドイツ人女性がいたが、鴎外の家族らの説得により、横浜港から離日する。かくて、鴎外の青春は「横浜に始まり、横浜に終わった」(小泉浩一郎)。これは、神奈川近代文学館が森鴎外展を開催した言い訳みたいだが、案外、重要な視座かもしれない。「自由と美」を海の彼方に置き捨て、官吏として、家長として、周囲の期待を一身に引き受け、義務と責任としがらみを背負った「諦念(レジグナチオン)」の日々が始まる。

 鴎外は、しばしば論争を好み、戦闘的な啓蒙活動を行ったことで、「闘う家長」のイメージが強い。けれども、これは、周囲の期待に応じた「ポーズ」の一面もあったのではないかと思う。長男・於菟は、決して声を荒げず、「家庭や周囲の人々の間で心持の行違いが起こると非常に頭を悩ました」という「優しい家長」だった父・鴎外の姿を語っている。時には、文芸委員という損な役回りを引き受け、検閲をめぐって対立する文学者と政府の仲介役さえ買って出ている。斎藤茂吉、与謝野鉄幹・晶子夫妻、石川啄木など、一癖も二癖もある文学者たちから、信頼と尊敬を寄せられていたことは、鴎外という人物の懐の深さを示しているように思う。

 永井荷風は、わざわざFlying Dutchman(さまよえるオランダ人)の絵葉書を選んで、「帰国以後、オペラも音楽もなく夜は暗いばかりの処、先生が西国芸苑の清話にそぞろ蘇生の思致し候」と、興奮を隠せず記している。「蘇生の思」は実感だったろう。荷風もまた、海の向こうに「青春」を置き捨ててきたひとりだった。

 鴎外は、二度目の妻を「美術品」に譬えたということで、女性文学者には評判が悪いらしいが、この比喩は、親友・賀古鶴所に宛てた書簡に出てくるもので、前後を読んでみると、四十過ぎた男やもめの鴎外が、十八も歳の離れた美しい妻を迎えることになった「照れ」の表現だと思う。再婚に当たって、鴎外はかなり緊張していたことが窺えて、なんというか、微笑ましい。

 長女・茉莉は「(父は)死ぬ時まで再びヨーロッパへ行くことを願っていた」と語り、次女・杏奴は「亡父が、独逸留学生時代の恋人を、生涯、どうしても忘れ去ることの出来ないほど、深く、愛していたという事実に心付いたのは、私が二十歳を過ぎた頃であった」と語っている。鴎外は、外向きには、謹厳な軍医局長、有能な国家官僚としての生涯を全うした。けれども、二人の聡明な娘の観察に従うなら、内心には、ヨーロッパの「自由と美」、留学時代の恋人――いわば、未完の「青春」への渇望を抱き続けた。この二面生活の苦渋に共感できるようになるには、やっぱり最低でも40年くらいの人生経験が必要だと思う。若輩者には分かるまい。

 こうして鴎外の生涯を辿ったのち、有名な遺言状「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」の前に立ち止まって、私は涙がこぼれそうになった。この前段には「死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ/奈何ナル官権威力ト雖此ニ反抗スル事ヲ得ズト信ズ」という激しい文言がある。傍目には一生涯「官権威力」に従順に寄り添い続けた鴎外が、とうとう、最後に翻した反旗である。

 会場の入口に戻ってみると、大正10年(1921)、皇太子(昭和天皇)の欧州外遊からの帰国を伝えるニュース・フィルムが流れていた。このフィルムに最晩年の鴎外が映っているというのだ。眺めていると、画面の左端から右端へ、シルクハットを片手に携えた鴎外が、うつむき加減で足早に横切っていく。わずか3秒ほどのそのシーンを、私は何度も繰り返し眺めた。三々五々連れ立って談笑する高官たちに目もくれようとしない、その孤独な姿は、「官権威力」の中枢にあって、鴎外が感じ続けた「違和感」を表しているようにも思えた。
コメント (4)
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