○ひろたまさき、キャロル・グラック監修;酒井直樹編『ナショナル・ヒストリーを学び捨てる』(歴史の描き方1) 東京大学出版会 2006.11
「学び捨てる」って、過激なタイトルだなあ、と苦笑しながら買ってみたら、タイトルページの裏に「Unlearning national history」という英訳が付記されていた。アンラーニング(Unlearning)とは、「学習棄却」と訳され、「いったん学習したことを意識的に忘れ、学び直すこと」を意味するのだそうだ。キャリア教育や人材マネージメントの分野では、定着した概念らしいが、私は初めて聞いた。学習(learning)と学習棄却(unlearning)のサイクルがあって初めて、継続的な成長が達成されるという。なるほど。「学び捨てる」とは「学ばない」ことではない。本書は、われわれが近代を叙述する際の「規範」であるナショナル・ヒストリーを、意識的に「学び捨てる」ことによって、新たな「日本」「近代」の叙述形式を獲得しようと試みている。
ひろたまさきは、1960年代に始まる民衆思想史の立場から国民国家を超える可能性を探り、キャロル・グラックは、アメリカにおける日本歴史研究が新しい段階に入ったことを示唆する。近世日本人の自国イメージを論じだ横田冬彦と、明治初期の美作一揆(被差別に対する襲撃事件)を論じたデビッド・ハウエルの、2編の個別主題研究に続き、酒井直樹は昭和史論争における亀井勝一郎を題材に、歴史と責任主体の問題を論じている。
亀井は、岩波新書『昭和史』を「『国民』不在あるいは人間不在」の歴史として批判したが、ここで、日本人=日本国民=日本民族=人間という、融通無碍な概念のすりかえが行われていることを、酒井は厳しく糾弾する。人間=日本人であるならば、それ以外の人々(アジアの人々)は人間でさえなく、日本人と彼らの間に責任の問題が生ずる余地はない。「愛犬に向かって謝罪の言葉を言ってみたりすることはあっても、私たちが犬に対して実質的な責任をとることがないのと変わらないだろう」という(酒井さんの文章は、こういうケレンぎりぎりみたいな”巧さ”が好き)。
だが、華麗なレトリックに富んだ酒井の文章は、国民国家主義批判としては有効でも、新たな「近代」の叙述形式を呼び込めているかどうかは疑問が残る。以前読んだ『日本/映像/米国』(青土社、2007)と同じで、必要なのは日本人を統合するのではなく、「共同性に分裂を持ち込むこと」だと結論づけているが、このアジテーションには、まだちょっと、私は生理的にたじろぐ。
ひろたまさきの言う「民衆思想史」も門外漢には難しいタームで、「少数者」にこだわり過ぎて、間口を狭くしている感がある。むしろ、キャロル・グラック(大御所)、デビッド・ハウエル(こちらは初耳)という2人のアメリカ人研究者による実証的な論考が非常に面白くて、「ポスト・ナショナルな歴史研究」の可能性を、具体的に実感させてくれた。
「学び捨てる」って、過激なタイトルだなあ、と苦笑しながら買ってみたら、タイトルページの裏に「Unlearning national history」という英訳が付記されていた。アンラーニング(Unlearning)とは、「学習棄却」と訳され、「いったん学習したことを意識的に忘れ、学び直すこと」を意味するのだそうだ。キャリア教育や人材マネージメントの分野では、定着した概念らしいが、私は初めて聞いた。学習(learning)と学習棄却(unlearning)のサイクルがあって初めて、継続的な成長が達成されるという。なるほど。「学び捨てる」とは「学ばない」ことではない。本書は、われわれが近代を叙述する際の「規範」であるナショナル・ヒストリーを、意識的に「学び捨てる」ことによって、新たな「日本」「近代」の叙述形式を獲得しようと試みている。
ひろたまさきは、1960年代に始まる民衆思想史の立場から国民国家を超える可能性を探り、キャロル・グラックは、アメリカにおける日本歴史研究が新しい段階に入ったことを示唆する。近世日本人の自国イメージを論じだ横田冬彦と、明治初期の美作一揆(被差別に対する襲撃事件)を論じたデビッド・ハウエルの、2編の個別主題研究に続き、酒井直樹は昭和史論争における亀井勝一郎を題材に、歴史と責任主体の問題を論じている。
亀井は、岩波新書『昭和史』を「『国民』不在あるいは人間不在」の歴史として批判したが、ここで、日本人=日本国民=日本民族=人間という、融通無碍な概念のすりかえが行われていることを、酒井は厳しく糾弾する。人間=日本人であるならば、それ以外の人々(アジアの人々)は人間でさえなく、日本人と彼らの間に責任の問題が生ずる余地はない。「愛犬に向かって謝罪の言葉を言ってみたりすることはあっても、私たちが犬に対して実質的な責任をとることがないのと変わらないだろう」という(酒井さんの文章は、こういうケレンぎりぎりみたいな”巧さ”が好き)。
だが、華麗なレトリックに富んだ酒井の文章は、国民国家主義批判としては有効でも、新たな「近代」の叙述形式を呼び込めているかどうかは疑問が残る。以前読んだ『日本/映像/米国』(青土社、2007)と同じで、必要なのは日本人を統合するのではなく、「共同性に分裂を持ち込むこと」だと結論づけているが、このアジテーションには、まだちょっと、私は生理的にたじろぐ。
ひろたまさきの言う「民衆思想史」も門外漢には難しいタームで、「少数者」にこだわり過ぎて、間口を狭くしている感がある。むしろ、キャロル・グラック(大御所)、デビッド・ハウエル(こちらは初耳)という2人のアメリカ人研究者による実証的な論考が非常に面白くて、「ポスト・ナショナルな歴史研究」の可能性を、具体的に実感させてくれた。