○諸星大二郎『西遊妖猿伝・西域篇』1 講談社 2009.6
ああ、とうとう…とうとう、私の悟空が戻ってきた! 『西遊妖猿伝』は、言わずと知れた諸星大二郎の代表作。「西遊記」を元にしたパロディ・翻案・新解釈は数々あるが、これぞ極めつけの傑作だと思う。
『西遊妖猿伝』は、Wikiによれば、雑誌「月刊スーパーアクション」1983年6月号に掲載されたのが初出である。その後、双葉社から単行本が9巻まで刊行されたが、途絶した(1984-1995年)。私は諸星大二郎の中国モノは好きだったのだが、この作品は、かなり暴力的だったのと(何しろ、地上に革命を起こすために選ばれた主人公は、時々、意識を失って殺戮魔になるのだ)、唐の建国をめぐる複雑な歴史背景がちんぷんかんぷんで、あまり気に入らなかった。それでも、少なくとも8巻までは表紙に見覚えがあるので、買っていたのだと思う。
その後、しばらく間をおいて、潮出版社が新装版を刊行し始めた(1998-2000年)。ちょうど私はこの前後に、大室幹雄の『劇場都市』シリーズ(というのは私の勝手な呼び名だが、中国古代~唐末の歴史をスリリングに論じた好著。残念ながら絶版が多い)を読み、シルクロードや河西回廊にも行く機会があったので、今度はかなり本気でハマった。著者が、妖怪「無支奇」を通じて仕掛けた独特の設定(虐げられた民衆の怒りや恨みが、悟空という少年の肉体を借りて暴力的に噴き出す)も、中国史に対する、かなり本質をうがった解釈に思われた。
しかし、その潮出版社版『西遊妖猿伝』の最終巻は、悟空、八戒とはぐれ、道案内の西域人・石槃陀とも別れて、ひとり沙漠に向けて歩み出す玄奘三蔵の孤独な姿で終わってしまった(はず。今、手元にない)。語り手である講釈師の「まずは、ここまで」みたいな口上に、えっ、そんな!と、呆気に取られたのを覚えている。これからでしょう、西遊記の本舞台は…!!
物語の続き「西域篇」は、いつか再開されるということになっていたが、この手の約束の果たされたマンガは少ない…と思う。子どもの頃から、大人の世界は、そういうものだと慣らされてきた。あるいは、最初の連載が打ち切られる時点で、作者の才能が枯渇していた場合は、再開しても全く面白くなくて、これなら止めておけばよかったのに、という苦い後味を残す場合もある。
「西域篇」第1巻を読んだ限りでは、それほどひどい結果にはなっていない。生温かい怪奇趣味と、アクションの爽快感がないまぜになった、諸星ワールドの魅力は磐石で、ファンには嬉しい限りだ。ただ、物語はまだゆっくりとローギアのスタートを切ったに過ぎず、前半の壮大な伏線と、これからどうリンクしていくのかは未知数である。わくわく、ドキドキ。
「西域篇」再開に際して、雑誌「ユリイカ」2009年3月号が諸星大二郎を特集したのにはびっくりしたが、実は「ユリイカ」1998年9月号の「西遊記」特集も、「天竺への路はまだ遠く…」と題して、中野美代子と諸星大二郎の対談を掲載している。これも今、手元にないが、諸星大二郎が、小説「西遊記」と違って、史実では一切の同行者なく、ひとりで沙漠に向けて歩み出す玄奘三蔵の姿を描きたくてこの作品を始めたんです、と語るのを読んで、「大唐篇」の最後のコマに、なるほどと合点がいったり、中野美代子が、実際に自分が沙漠で体験した不思議を語って、「西域篇で使ったらいいわ」なんてアドバイスしていた記憶もある。御大・中野美代子先生も、本作の再開をお喜びだろうか。

『西遊妖猿伝』は、Wikiによれば、雑誌「月刊スーパーアクション」1983年6月号に掲載されたのが初出である。その後、双葉社から単行本が9巻まで刊行されたが、途絶した(1984-1995年)。私は諸星大二郎の中国モノは好きだったのだが、この作品は、かなり暴力的だったのと(何しろ、地上に革命を起こすために選ばれた主人公は、時々、意識を失って殺戮魔になるのだ)、唐の建国をめぐる複雑な歴史背景がちんぷんかんぷんで、あまり気に入らなかった。それでも、少なくとも8巻までは表紙に見覚えがあるので、買っていたのだと思う。
[双葉社版] | |
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[潮出版社版] | |
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しかし、その潮出版社版『西遊妖猿伝』の最終巻は、悟空、八戒とはぐれ、道案内の西域人・石槃陀とも別れて、ひとり沙漠に向けて歩み出す玄奘三蔵の孤独な姿で終わってしまった(はず。今、手元にない)。語り手である講釈師の「まずは、ここまで」みたいな口上に、えっ、そんな!と、呆気に取られたのを覚えている。これからでしょう、西遊記の本舞台は…!!
物語の続き「西域篇」は、いつか再開されるということになっていたが、この手の約束の果たされたマンガは少ない…と思う。子どもの頃から、大人の世界は、そういうものだと慣らされてきた。あるいは、最初の連載が打ち切られる時点で、作者の才能が枯渇していた場合は、再開しても全く面白くなくて、これなら止めておけばよかったのに、という苦い後味を残す場合もある。
「西域篇」第1巻を読んだ限りでは、それほどひどい結果にはなっていない。生温かい怪奇趣味と、アクションの爽快感がないまぜになった、諸星ワールドの魅力は磐石で、ファンには嬉しい限りだ。ただ、物語はまだゆっくりとローギアのスタートを切ったに過ぎず、前半の壮大な伏線と、これからどうリンクしていくのかは未知数である。わくわく、ドキドキ。
「西域篇」再開に際して、雑誌「ユリイカ」2009年3月号が諸星大二郎を特集したのにはびっくりしたが、実は「ユリイカ」1998年9月号の「西遊記」特集も、「天竺への路はまだ遠く…」と題して、中野美代子と諸星大二郎の対談を掲載している。これも今、手元にないが、諸星大二郎が、小説「西遊記」と違って、史実では一切の同行者なく、ひとりで沙漠に向けて歩み出す玄奘三蔵の姿を描きたくてこの作品を始めたんです、と語るのを読んで、「大唐篇」の最後のコマに、なるほどと合点がいったり、中野美代子が、実際に自分が沙漠で体験した不思議を語って、「西域篇で使ったらいいわ」なんてアドバイスしていた記憶もある。御大・中野美代子先生も、本作の再開をお喜びだろうか。
[2009年3月号] | [1998年9月号] |
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