○大門正克『歴史への問い/現在への問い』 校倉書房 2008.3
最初に本書との「出会い」を書いておきたい。2011年3月11日に起きた東日本大震災。東京は、その翌週から節電の取り組みが始まり、鉄道は間引き運転、店はどこも早じまいとなった。おかげで、通勤帰りに都心の書店に寄ることもできない。仕方ないので、昼休みに、職場近くの本屋を物色していたら、本書が目についた。
大門正克氏の名前は、小学館の「全集 日本の歴史」の著者として認識があった。パラパラめくってみたら、昭和史論争とか社会史研究から国民国家論へなどのキーワードが出てきて、面白そう(読み応えがありそう)だったので、購入した。先週、あらためて冒頭を開いてびっくりした。「震災が歴史に問いかけるもの」という章見出しが飛び込んできたのだ。これは、95年の阪神淡路大震災から2年後に書かれた文章であったが、まるで今回の大震災の未来から呼びかけられているような、不思議な錯覚を味わうことになった。
その文章に言う、「大震災という日常を超えた事態が起きたときには、むしろ日常で見えにくい社会の断面が切り開かれたのではないかという印象をもった」「震災の断面から何を見たのかという問いへの答えは、そのままその人の立脚点を映し出すことにもなった」云々。
本書が基本的な主題にしているのは、90年代の歴史認識である。新自由主義とグローバリゼーションの進行を背景に、日本では、歴史と歴史の見方をめぐって議論が重ねられた。議論の的となったのは国民国家論である。著者は、90年代の代表的な国民国家研究(西川長夫、成田龍一、牧原憲夫)および自由主義史観の坂本多加雄氏による「国民の物語」論を紹介し、このような国民国家論の興盛が日本特有の事象であること(フランスの代表的な国語辞典には「まだ」この言葉がない)、自由主義史観が提唱する「新しい国民意識」も、逆に「国家にからめとられることを忌避する個人」像も、「強い個人」を前提としている点が共通することを指摘する。
著者自身は、国家や企業などの「つながり」の装置が、個人を抑圧する「しがらみ」として働く危険性を認めながら、それでも「われわれ」にこだわることに意味を見出そうとする。民衆を「国民化される客体」として眺めるのみでなく、国民であると同時に、地域社会の一員でもあり、個人でもある「さまざまな私」を議論の出発点としたい、と説く。
著者がこのような認識に至るまでには、震災という極限状況で「つながり」「きずな」の再生を求めた人々の営為に何を学ぶか、どう向き合うか、という切実な問題があった。著者の思考の軌跡は、具体的な震災記録の編纂・保存・展示等をめぐる文章から追うことができる。本書のほぼ半分近いページは、阪神大震災に関わる文章に割かれている。
私は、日ごろ、「国民国家」を忌避する成田龍一氏の議論に共感してきた。歴史認識だけではなくて、現在の社会についても、今回の東日本大震災が、一足飛びに「がんばれ日本」「日本はすごい」という国家的統合意識に結びつく状況に、かなり居心地の悪さを感じていた。ただし、そういう自分の感じ方は、個人主義を生活の基本とする都市住民に特有のものではないか、というのも、今回の震災報道の中で考えてきたことである。
国家は国民を抑圧するためだけの装置ではない。人々は生きるために国家を必要とし、国家を創り出す主体となることもできる。この議論はどこかで読んだな、と思って、いま、読書記録を読み返し、宇野重規の『〈私〉時代のデモクラシー』が「社会」について語っていたことと共通するように思った。
震災報道は、人と人の「つながり」の意味を考え直す契機を与えてくれている。その一方、そもそも、家族・仲間など、悼むべき他者との「つながり」を持たない人々は、報道に取り上げられることがないのではないか、とも思う。勝手な想像だが、原発事故の現場作業に当たっているのは、そういう「つながり」から排除された、社会の最弱者が多いのではないか、と思うこともある。
最初に本書との「出会い」を書いておきたい。2011年3月11日に起きた東日本大震災。東京は、その翌週から節電の取り組みが始まり、鉄道は間引き運転、店はどこも早じまいとなった。おかげで、通勤帰りに都心の書店に寄ることもできない。仕方ないので、昼休みに、職場近くの本屋を物色していたら、本書が目についた。
大門正克氏の名前は、小学館の「全集 日本の歴史」の著者として認識があった。パラパラめくってみたら、昭和史論争とか社会史研究から国民国家論へなどのキーワードが出てきて、面白そう(読み応えがありそう)だったので、購入した。先週、あらためて冒頭を開いてびっくりした。「震災が歴史に問いかけるもの」という章見出しが飛び込んできたのだ。これは、95年の阪神淡路大震災から2年後に書かれた文章であったが、まるで今回の大震災の未来から呼びかけられているような、不思議な錯覚を味わうことになった。
その文章に言う、「大震災という日常を超えた事態が起きたときには、むしろ日常で見えにくい社会の断面が切り開かれたのではないかという印象をもった」「震災の断面から何を見たのかという問いへの答えは、そのままその人の立脚点を映し出すことにもなった」云々。
本書が基本的な主題にしているのは、90年代の歴史認識である。新自由主義とグローバリゼーションの進行を背景に、日本では、歴史と歴史の見方をめぐって議論が重ねられた。議論の的となったのは国民国家論である。著者は、90年代の代表的な国民国家研究(西川長夫、成田龍一、牧原憲夫)および自由主義史観の坂本多加雄氏による「国民の物語」論を紹介し、このような国民国家論の興盛が日本特有の事象であること(フランスの代表的な国語辞典には「まだ」この言葉がない)、自由主義史観が提唱する「新しい国民意識」も、逆に「国家にからめとられることを忌避する個人」像も、「強い個人」を前提としている点が共通することを指摘する。
著者自身は、国家や企業などの「つながり」の装置が、個人を抑圧する「しがらみ」として働く危険性を認めながら、それでも「われわれ」にこだわることに意味を見出そうとする。民衆を「国民化される客体」として眺めるのみでなく、国民であると同時に、地域社会の一員でもあり、個人でもある「さまざまな私」を議論の出発点としたい、と説く。
著者がこのような認識に至るまでには、震災という極限状況で「つながり」「きずな」の再生を求めた人々の営為に何を学ぶか、どう向き合うか、という切実な問題があった。著者の思考の軌跡は、具体的な震災記録の編纂・保存・展示等をめぐる文章から追うことができる。本書のほぼ半分近いページは、阪神大震災に関わる文章に割かれている。
私は、日ごろ、「国民国家」を忌避する成田龍一氏の議論に共感してきた。歴史認識だけではなくて、現在の社会についても、今回の東日本大震災が、一足飛びに「がんばれ日本」「日本はすごい」という国家的統合意識に結びつく状況に、かなり居心地の悪さを感じていた。ただし、そういう自分の感じ方は、個人主義を生活の基本とする都市住民に特有のものではないか、というのも、今回の震災報道の中で考えてきたことである。
国家は国民を抑圧するためだけの装置ではない。人々は生きるために国家を必要とし、国家を創り出す主体となることもできる。この議論はどこかで読んだな、と思って、いま、読書記録を読み返し、宇野重規の『〈私〉時代のデモクラシー』が「社会」について語っていたことと共通するように思った。
震災報道は、人と人の「つながり」の意味を考え直す契機を与えてくれている。その一方、そもそも、家族・仲間など、悼むべき他者との「つながり」を持たない人々は、報道に取り上げられることがないのではないか、とも思う。勝手な想像だが、原発事故の現場作業に当たっているのは、そういう「つながり」から排除された、社会の最弱者が多いのではないか、と思うこともある。