○ロナルド・ドーア『金融が乗っ取る世界経済:21世紀の憂鬱』(中公新書) 中央公論社 2011.10
もともと経済は私の苦手分野であるが、最近は、さらにその程度が激しくなってきた。ニュース記事を読んでいても、何が起きているのか、全然分からない。いまの世界経済は、私がかつて高校で習ったような実体経済から、遠く離れたところに行ってしまったようだ。その変化をひとことで言えば、経済の「金融化」である。
本書の第1部は「金融化」の中味を説明して、以下のように言う(抄録)。(1)先進工業国の総所得において、金融業に携わる人の取り分が大きくなる、(2)金融派生商品(デリバティブ)など新技術の導入によって、金融業者の仲介活動が複雑化し、投機的になっていく、(3)企業経営者の社会的責任が、株主という対象のみに絞られていく、(4)各国政府にとって「国際的競争力強化」の優先順位が上昇し、国民に対する「証券文化」の奨励に重点が置かれていく。
これだけ読むと、だから?何か問題でも?と感じる読者もいると思う。投機的な「証券文化」が絶対悪だとは、著者も言っていない。しかし、第2部では、長期的な金融化傾向が生み出した社会現象を論じ、(1)格差拡大、(2)不確実性・不安の増大、(3)知的能力資源の配分への影響、(4)信用と人間関係の歪みを指摘する。
ここでは(1)と(2)の解説だけ引こう。「金融化」以前の市場経済でも、複雑で専門的な仕事のできる人と、簡単な仕事しかできない人の収入格差は、労働市場の市場原理によって、どこまでも開いていくはずだった。しかし、実際の社会では「慣習」の力(同じ国民の間に甚だしい貧富の差があってはいけないという「社会的通念」)によって、一定の幅に抑えられてきた。「証券文化」は、この慣習を侵食しつつある。また、市場の圧力に起因する「選択肢の拡大」は、現役世代の雇用・賃金だけでなく、老後の生活をも不確実性に満ちたものにしてしまった。「投資家にならず、単なる貯蓄家に留まることが当たり前」だった世界への未練を感じるのは「私一人だけだろうか」と著者は慨嘆する。
いや。やっぱり、90年代このかた、日本の社会は、アングロ・サクソン社会の基準に照らした「立ち遅れ」を取り戻そうとして、捨ててはいけない「慣習」や「安定」を捨ててきたのではないかと思う。第1部に詳述されているとおり、1990年には英国でも、法人企業のステークホルダーは、株主だけでなく「従業員、顧客、下請企業、債権者、地域社会および一般社会」と考えられていた。ところが、97年には「経営者および取締役会の最高の義務は、企業の株主に対するそれである」に変わっている。いったい何が起きているんだ、これは。
そして、その尻馬に乗るように、この10年、日本の総理大臣も「貯蓄から投資へ」を説き、「リスク・テーク」の勇気を国民に奨励してきた。その結果が、いまの日本である。著者は、国家経済のパフォーマンスの測り方について、国民所得の成長率を他国と比べる方法(成長)とは別に、「格差拡大があまりなかったか、生活水準が上がったか、教育・医療・福祉制度が強化されたか」(進歩)というメルクマールがあることを挙げ、前者は小人の、後者は君子の捉え方である、と述べている。国家経済だけでなく、地方自治体も、企業も、教育機関も、もう一回この「君子の捉え方」を再考すべき時期なのではないかと思う。
しかし、第3部、弊害是正をめぐる各国金融省庁や国際機関の試みについて読むと、あまり気持ちが晴れない。金融経済は、過度なリスク・テークに関し、個人にも企業にも、制裁や調整が働かないシステムであるというのだ。まず、個人トレーダーは、賭けに勝てば莫大なボーナスを手にすることができ、自分の失敗で会社が潰れても、何年間も生活に困らない。また、巨大すぎる法人企業は、倒産の社会的影響が大きいため、失敗しても公的資金で救われる可能性が大きいという。ええ~駄目じゃん…。
結局、門外漢にとっては謎が多く、憂鬱が深まるばかりの読書であったが、経済の「金融化」を是とした「リスク・テーク」奨励には、眉に唾をつけて対処していこうと思った。
![](http://ecx.images-amazon.com/images/I/41DT1MqqOOL._SL160_.jpg)
本書の第1部は「金融化」の中味を説明して、以下のように言う(抄録)。(1)先進工業国の総所得において、金融業に携わる人の取り分が大きくなる、(2)金融派生商品(デリバティブ)など新技術の導入によって、金融業者の仲介活動が複雑化し、投機的になっていく、(3)企業経営者の社会的責任が、株主という対象のみに絞られていく、(4)各国政府にとって「国際的競争力強化」の優先順位が上昇し、国民に対する「証券文化」の奨励に重点が置かれていく。
これだけ読むと、だから?何か問題でも?と感じる読者もいると思う。投機的な「証券文化」が絶対悪だとは、著者も言っていない。しかし、第2部では、長期的な金融化傾向が生み出した社会現象を論じ、(1)格差拡大、(2)不確実性・不安の増大、(3)知的能力資源の配分への影響、(4)信用と人間関係の歪みを指摘する。
ここでは(1)と(2)の解説だけ引こう。「金融化」以前の市場経済でも、複雑で専門的な仕事のできる人と、簡単な仕事しかできない人の収入格差は、労働市場の市場原理によって、どこまでも開いていくはずだった。しかし、実際の社会では「慣習」の力(同じ国民の間に甚だしい貧富の差があってはいけないという「社会的通念」)によって、一定の幅に抑えられてきた。「証券文化」は、この慣習を侵食しつつある。また、市場の圧力に起因する「選択肢の拡大」は、現役世代の雇用・賃金だけでなく、老後の生活をも不確実性に満ちたものにしてしまった。「投資家にならず、単なる貯蓄家に留まることが当たり前」だった世界への未練を感じるのは「私一人だけだろうか」と著者は慨嘆する。
いや。やっぱり、90年代このかた、日本の社会は、アングロ・サクソン社会の基準に照らした「立ち遅れ」を取り戻そうとして、捨ててはいけない「慣習」や「安定」を捨ててきたのではないかと思う。第1部に詳述されているとおり、1990年には英国でも、法人企業のステークホルダーは、株主だけでなく「従業員、顧客、下請企業、債権者、地域社会および一般社会」と考えられていた。ところが、97年には「経営者および取締役会の最高の義務は、企業の株主に対するそれである」に変わっている。いったい何が起きているんだ、これは。
そして、その尻馬に乗るように、この10年、日本の総理大臣も「貯蓄から投資へ」を説き、「リスク・テーク」の勇気を国民に奨励してきた。その結果が、いまの日本である。著者は、国家経済のパフォーマンスの測り方について、国民所得の成長率を他国と比べる方法(成長)とは別に、「格差拡大があまりなかったか、生活水準が上がったか、教育・医療・福祉制度が強化されたか」(進歩)というメルクマールがあることを挙げ、前者は小人の、後者は君子の捉え方である、と述べている。国家経済だけでなく、地方自治体も、企業も、教育機関も、もう一回この「君子の捉え方」を再考すべき時期なのではないかと思う。
しかし、第3部、弊害是正をめぐる各国金融省庁や国際機関の試みについて読むと、あまり気持ちが晴れない。金融経済は、過度なリスク・テークに関し、個人にも企業にも、制裁や調整が働かないシステムであるというのだ。まず、個人トレーダーは、賭けに勝てば莫大なボーナスを手にすることができ、自分の失敗で会社が潰れても、何年間も生活に困らない。また、巨大すぎる法人企業は、倒産の社会的影響が大きいため、失敗しても公的資金で救われる可能性が大きいという。ええ~駄目じゃん…。
結局、門外漢にとっては謎が多く、憂鬱が深まるばかりの読書であったが、経済の「金融化」を是とした「リスク・テーク」奨励には、眉に唾をつけて対処していこうと思った。