○佐野眞一『津波と原発』 講談社 2011.6
実は、本書を置いている書店を、ずいぶん探したのである。紀伊国屋の新宿南口店では、データ上「在庫有」になっているのに、実際は無かったり。ダメだろ、こういう本こそ、ちゃんと棚に出しておかなきゃ…。
本書は「津波」と「原発」の二つのパートから成っている。第一部「日本人と大津波」は、雑誌『G2(ジーツー)』に掲載されたもの。雑誌と書いたが、版元の講談社は「雑誌・単行本・ネットが三位一体となったノンフィクション新機軸メディア」を謳っている。著者が「ルポ・大津波と日本人」を発表した第7号は、Amazonで見ると、2011年4月15日発売になっている。この日付が本当なら、驚くべき早さだ。
3月18日に出発。気仙沼に、元おかまバーの名物ママを訪ね、宮古で「定置網の帝王」に会い、日本共産党元文化部長で在野の津波研究家の山下文男にインタビューする。その間々にも、現地で出会った人たちの声が拾われている。いちばん壮絶なのは、やはり陸前高田の県立病院に入院中に被災した山下さんだろうか。病院の4階の窓を破って侵入してきた津波に、カーテンを腕に巻きつけて耐えた。自衛隊のヘリコプターに救われ「僕はこれまでずっと自衛隊は憲法違反だと言い続けてきたが、今度ほど自衛隊を有り難いと思ったことはなかった」と述懐する。この話は、佐野さんがニコニコ動画の特別番組でも紹介していたが、山下さんが、その後もずっと自衛隊から貰った毛布を大事そうに抱きしめていた、という描写に胸を打たれた。
第一部だけでも凡百の垂れ流しジャーナリズムとは一線を画しているのだが、さらに読み応えがあるのは、第二部「原発街道を行く」である。著者は、福島第一原発の半径20キロ圏内が立ち入り禁止となった後(4月25日)、ゴーストタウンと化した大熊町、双葉町一帯に入り、原発労働者に話を聞いたり、立入り禁止区域の牧場に水とエサをやりに行く牧場主と話したりしている。そして、福島第一原発に最も近いホウレン草農家を訪ね、一帯に住む人々が、天明の大飢饉による農地の荒廃を打開するため、相馬中村藩によって、因幡(鳥取)から移住させられた農民の子孫であることを知る。
これを、震災とも原発とも関係ないと見る人は見るだろう。でも、私はこの悲惨な歴史を知って、福島の「浜通り」が、どういう性格の地域であるかを、はじめてはっきりイメージすることができた。そこに住む人々の眼に、原発のもたらす「文化」や「繁栄」が、どれだけ眩しく映ったかということも。
第二部第二章「原発前夜――原子力の父・正力松太郎」は、本書の白眉だと思う。プロ野球の父、テレビ放送の父である正力は、原子力発電の父でもあった。原子力について特別な知識があったわけではなく、政治的野心に基づくカンとしか言いようがない。読売新聞を使った「すさまじいばかりの原子力利用キャンペーン」。日比谷公会堂で行われた原子力平和利用博覧会では、第五福竜丸の実物資料展示まで行われた。えええ~。しかも入場者36万人って、何を考えていたんだ、日本人! さらに昭和34年、東京国際見本市に展示された超小型原子炉は、昭和天皇の「天覧」にも浴している。まあ、あのひとは科学者だったからねえ…。
こうして正力松太郎と、その懐刀と呼ばれた柴田秀利の描いたシナリオによって、日本国民が原子力アレルギーを忘れ、原発を受け入れていく経緯が、本書には一気呵成に示されている。文字どおり、震撼した。著者の『巨怪伝』(正力松太郎伝)には、もっと詳しいのだろうか。読んでみなくては。
しかし、正力の陰謀とかCIAの謀略を疑うのは間違いだろう。「正力は大衆が望むものしか興味がなかった。プロ野球でもテレビでも、そして原子力も大衆が望んだからこそ、この天才的プロモーターは力づくで日本に導入して、根づかせた」という著者の言葉に同感する。大衆とは「わたし」のことだ。高度経済成長の真っただ中、テレビでプロ野球中継を楽しんで育った私たちが、原子力を(消費と享楽を)望んだのだ、と思った。
果たして私たち日本人は、正力の掌を出ることができるのか。第二部第三章には、原発を導入した町長たちとその関係者、地元育ちの若い研究者などが登場し、さまざまな意見を述べている。異色で印象的なのは、著者が『東電OL殺人事件』の取材中に受けたという「東電広報部の慇懃無礼な懐柔策」の記述。これ、クレームがこないというのは本当の話なんだろうか。東電広報部って、いろんな意味ですごいわ…。
最後の「あとがきにかえて」には、著者がこの未曽有の危機について語ってみたいと思った二人の男、原武史氏と森達也氏との対談が、それぞれ、ほんのわずかだけ引用されている。いい人選だ。この二人と佐野さんの対談、いずれ別の本になると思う(もう出版されているのかな?)けれど、とても楽しみである。
![](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51I2GXZFazL._SL160_.jpg)
本書は「津波」と「原発」の二つのパートから成っている。第一部「日本人と大津波」は、雑誌『G2(ジーツー)』に掲載されたもの。雑誌と書いたが、版元の講談社は「雑誌・単行本・ネットが三位一体となったノンフィクション新機軸メディア」を謳っている。著者が「ルポ・大津波と日本人」を発表した第7号は、Amazonで見ると、2011年4月15日発売になっている。この日付が本当なら、驚くべき早さだ。
3月18日に出発。気仙沼に、元おかまバーの名物ママを訪ね、宮古で「定置網の帝王」に会い、日本共産党元文化部長で在野の津波研究家の山下文男にインタビューする。その間々にも、現地で出会った人たちの声が拾われている。いちばん壮絶なのは、やはり陸前高田の県立病院に入院中に被災した山下さんだろうか。病院の4階の窓を破って侵入してきた津波に、カーテンを腕に巻きつけて耐えた。自衛隊のヘリコプターに救われ「僕はこれまでずっと自衛隊は憲法違反だと言い続けてきたが、今度ほど自衛隊を有り難いと思ったことはなかった」と述懐する。この話は、佐野さんがニコニコ動画の特別番組でも紹介していたが、山下さんが、その後もずっと自衛隊から貰った毛布を大事そうに抱きしめていた、という描写に胸を打たれた。
第一部だけでも凡百の垂れ流しジャーナリズムとは一線を画しているのだが、さらに読み応えがあるのは、第二部「原発街道を行く」である。著者は、福島第一原発の半径20キロ圏内が立ち入り禁止となった後(4月25日)、ゴーストタウンと化した大熊町、双葉町一帯に入り、原発労働者に話を聞いたり、立入り禁止区域の牧場に水とエサをやりに行く牧場主と話したりしている。そして、福島第一原発に最も近いホウレン草農家を訪ね、一帯に住む人々が、天明の大飢饉による農地の荒廃を打開するため、相馬中村藩によって、因幡(鳥取)から移住させられた農民の子孫であることを知る。
これを、震災とも原発とも関係ないと見る人は見るだろう。でも、私はこの悲惨な歴史を知って、福島の「浜通り」が、どういう性格の地域であるかを、はじめてはっきりイメージすることができた。そこに住む人々の眼に、原発のもたらす「文化」や「繁栄」が、どれだけ眩しく映ったかということも。
第二部第二章「原発前夜――原子力の父・正力松太郎」は、本書の白眉だと思う。プロ野球の父、テレビ放送の父である正力は、原子力発電の父でもあった。原子力について特別な知識があったわけではなく、政治的野心に基づくカンとしか言いようがない。読売新聞を使った「すさまじいばかりの原子力利用キャンペーン」。日比谷公会堂で行われた原子力平和利用博覧会では、第五福竜丸の実物資料展示まで行われた。えええ~。しかも入場者36万人って、何を考えていたんだ、日本人! さらに昭和34年、東京国際見本市に展示された超小型原子炉は、昭和天皇の「天覧」にも浴している。まあ、あのひとは科学者だったからねえ…。
こうして正力松太郎と、その懐刀と呼ばれた柴田秀利の描いたシナリオによって、日本国民が原子力アレルギーを忘れ、原発を受け入れていく経緯が、本書には一気呵成に示されている。文字どおり、震撼した。著者の『巨怪伝』(正力松太郎伝)には、もっと詳しいのだろうか。読んでみなくては。
しかし、正力の陰謀とかCIAの謀略を疑うのは間違いだろう。「正力は大衆が望むものしか興味がなかった。プロ野球でもテレビでも、そして原子力も大衆が望んだからこそ、この天才的プロモーターは力づくで日本に導入して、根づかせた」という著者の言葉に同感する。大衆とは「わたし」のことだ。高度経済成長の真っただ中、テレビでプロ野球中継を楽しんで育った私たちが、原子力を(消費と享楽を)望んだのだ、と思った。
果たして私たち日本人は、正力の掌を出ることができるのか。第二部第三章には、原発を導入した町長たちとその関係者、地元育ちの若い研究者などが登場し、さまざまな意見を述べている。異色で印象的なのは、著者が『東電OL殺人事件』の取材中に受けたという「東電広報部の慇懃無礼な懐柔策」の記述。これ、クレームがこないというのは本当の話なんだろうか。東電広報部って、いろんな意味ですごいわ…。
最後の「あとがきにかえて」には、著者がこの未曽有の危機について語ってみたいと思った二人の男、原武史氏と森達也氏との対談が、それぞれ、ほんのわずかだけ引用されている。いい人選だ。この二人と佐野さんの対談、いずれ別の本になると思う(もう出版されているのかな?)けれど、とても楽しみである。