見もの・読みもの日記

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鎮魂をめぐる民俗的思考/ゴジラとナウシカ(赤坂憲雄)

2014-12-22 23:54:47 | 読んだもの(書籍)
○赤坂憲雄『ゴジラとナウシカ』 イースト・プレス 2014.8

 東日本大震災のとき、著者はしばらく言葉を失って「地下の書斎に籠って、ただパソコンの画面に目を凝らしつづけ」ていた。私は近年の著者を、山形県にある東北芸術工科大学の教員と記憶していたが、2011年1月に退職して東京に戻っていたのだそうだ。著者はパソコンの画面で『ゴジラ』とアニメ版『ナウシカ』を観た。そこから、思索の彷徨が始まる。

 まず、1954年封切りの『ゴジラ』第一作について。海底に潜んでいた太古の怪獣ゴジラが水爆実験により目を覚まし、東京を襲撃して、破壊の限りを尽くす。あらゆる生物を液化する薬品兵器オキシジェン・デストロイヤーを発明した科学者・芹沢博士は、自らの生命を犠牲にし、ゴジラとともに海に消えていく。

 ううむ、こんな話だったのか。実は、私は『ゴジラ』を全編きちんと観たことがない。太古の怪獣が水爆実験で目を覚ますという設定に、アメリカのビキニ環礁での水爆実験と第五福竜丸の被爆、さらには広島・長崎への原爆投下の記憶が影響しているという解説は、何度も聞いたことがある。ゴジラは第二次世界大戦で南の海に死んでいった兵士たちの霊魂(英霊)であるから、皇居に踏み込むことができない、という説も。

 しかし、物語の最後にゴジラを倒す(鎮める)のが、ひとりの科学者の自己犠牲であるということは、よく認識していなかった。また、ゴジラは、東京に現れる前、日本の辺境(らしい)大戸島に上陸する。島には「呉爾羅」という恐ろしい怪物(神)の伝説が伝わっていた。昔は長い時化(しけ)が続くと、若い娘を生贄として沖に流した、と島の老人は語る。なんだこの、記憶以前の記憶をゆさぶるような、甘美な前奏曲は…。科学万能時代のSF怪獣映画だと思っていた『ゴジラ』が、あまりに深く民俗的想像力に根差していることを知って、私は慌ててしまった。

 さらに著者は、柳田国男の「物言ふ魚」という論考に収められた二つの津波伝承をごろりと投げ出す。海の彼方からやってくる神。捧げられる犠牲。辺境から現れる荒ぶる存在を鎮め、向こうの世界に送り返すことは、日本人の心性の土台と結び付いている。修羅能もそのひとつ。だから、多くの作家や芸術家、三島由紀夫や岡本太郎が、怪獣映画に魅せられたのではないか。これは、俳優・佐野史郎氏との対談にて。

 それにしても『モスラ』の原作が、中村真一郎、福永武彦、堀田善衛だというのも知らなかったなあ。『ゴジラ』に比べて論じられる機会の少ない『モスラ』のあらすじについて、詳しい紹介があるのも本書の読みどころである。著者は、モスラ/ゴジラに、母性原理(女性原理ではない)/男性原理が絡み合い、補完し合う光景を見る。双子(原作では四ツ子)の小美人に斎き祀られるモスラに対して、ゴジラの孤独は深い。「それは祀られることを忘却されることで、荒ぶる『猛き獣』と化した海の神なのである」。 

 さらに「犠牲」と「技術」をめぐる問題は、宮沢賢治の『グスコーブドリの伝記』を経て『風の谷のナウシカ』につながる。やや安直な解決しか示し得なかった映画版『ナウシカ』を避けて、著者は漫画版『ナウシカ』に宮崎駿が込めた思いを執拗に追っていく。

 私は、1980年代、「異人」「排除」「境界」等をめぐる著者の論考の愛読者であった。『王と天皇』(筑摩書房、1988年)で、著者が『ナウシカ』を引きながら、ハタモノ(生贄)としての天皇を論じたことも、鮮やかに記憶している。こっそり言っておくと、本書を読んで、あの頃の赤坂さんが戻ってきたようで嬉しかった。

 なお、著者は佐野史郎氏との対談の中で「東北の被災地ではいま、死者の幽霊に出会ったなど怪談がたくさん語られています」と発言している。それはそうだろう、あれだけの災害だもの。けれども、まだマスコミに載せて語ることは許されていないんだろうな。何しろ著者が震災直後に文芸誌のために書いた短文も、『ゴジラ』『ナウシカ』など、アニメや怪獣映画にことよせた震災論であったため、「不謹慎」のそしりを受けて、掲載までひと悶着あったという。しかし、生者と死者の和解のためには、怪談や芸能など、民俗的思考の力を借りる必要がたぶんある。『遠野物語』には、明治29年の三陸大津波を背景とする印象的な怪談が収録されているが、東日本大震災も、同じような文芸を残すことができるだろうか。
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