見もの・読みもの日記

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兵法の研究/軍国日本と『孫子』(湯浅邦弘)

2015-07-13 22:33:43 | 読んだもの(書籍)
○湯浅邦弘『軍国日本と「孫子」』(ちくま新書) 筑摩書房 2015.6

 古来、日本人が愛してやまない中国の古典『孫子』。私がその存在を意識したのは、もっぱら大河ドラマから。2007年の『風林火山』では山本勘助が叫ぶ「兵は詭道也!」が好きだった。なるほど戦国時代には受容されていたんだな、と思ったら、2012年の『平清盛』では保元の乱の描写に『孫子』が出て来た。そんなに古くから?と思って調べたら『続日本紀』には、吉備真備が『孫子』に通じていたという話が載っているそうだ。いかにも「武」を尊んできた日本文化の歴史にふさわしい。

 本書は、近代日本における『孫子』の読まれ方を検証する。明治維新を機に西洋式の近代化を目指した日本であるが、明治も中頃を過ぎると、中国古典の再読ブームが起きる。まだ大規模な近代戦を経験する前なので、日本古来の合戦の例を引きながら、『孫子』の兵法の解説をする注釈書などが現れる。大正期には、日清・日露戦争の実戦体験(勝利の自信)を踏まえた、陸軍軍人による注釈書が出る一方、『孫子』を処世訓として読むジャーナリストの解説書も現れる。

 昭和に入ると、東洋や日本を高く評価するあまり、どう見ても『孫子』の真意を逸脱した解釈が進められていく。その果ては、我が国には『孫子』以上に優れた兵学書があることを誇ることになる。大江匡房作といわれる『闘戦経』(11世紀~12世紀初め)である。へえー。大江匡房って面白い人物だなあ。和歌ほど自由に漢文が読めないので、いまひとつ全貌が明らかでないのだが。それから権謀術数が嫌いで、「誠」や「正々堂々」を美徳としたがる日本文化の傾向。『闘戦経』には「兵の道は能く戦うのみ」とあるという。それは兵学なのか? ちなみに『闘戦経』には「勝たずば断じて止むべからず」とあり、「生きて虜囚の辱めを受けず」ともあるそうだ。

 著者はこれに注していう。『孫子』は戦争の動機が「恥」や「面目」であるなど説かない。開戦や作戦の是非の判断は、冷静な「利」の分析によって行われるべきである、と。いろいろとキナ臭い昨今、もしかしたら日本は再び戦争をするかしないかの決断を迫られるかもしれない。そのときは、余計な感情論を交えず、「利」で押し切ってほしいと切に願う。

 本書の始めには『孫子』兵法のエッセンスが手短に紹介されていて、興味深い。その中に「君命に受けざる所あり」(受けてはならない主君の命令もある)という有名な一句があって、著者はこれを「戦道必ず勝たば、主は戦う無かれと曰うも、必ず戦いて可なり。戦道勝たざれば、主必ず戦えと曰うも、戦う無くして可なり」と結びつけて解釈する。特に後半。戦争の原則に照らして勝てる見込みがないときには、たとえ主君が必ず戦えと言っても、戦ってはならない。戦争の目的は「勝つ」ことなのだから、この身も蓋もないほどの合理主義、私は好きだ。

 『昭和天皇独白録』によれば、昭和天皇は太平洋戦争の敗因を分析して、その第一に「兵法の研究が不充分であった事。即ち孫子の、敵を知り、己を知らねば、百戦危うからずという根本原理を体得していなかったこと」(ママ)を挙げている。古めかしい物言いに聞こえるが、少なくとも戦争末期の精神主義よりは、二千年以上前の兵学書『孫子』のほうが、ずっと明快に合理的なのだ。『孫子』はあまりに内容が高度なので、後世の偽書ではないかと疑われたこともあるという。だが山東省銀雀山の漢代墳墓から『孫子』写本(竹簡)が出土したことで、その疑いは払拭された。この話は、同じ著者の『諸子百家』(中公新書、2009)に詳しい。

 しかし、再び『孫子』の兵法が現実味を帯びる時代が来ることは、正直なところごめんだ。せいぜいビジネスマンの処世訓として読まれている状態が望ましい。
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