〇いとうせいこう、奥泉光『漱石漫談』 河出書房新社 2017.4
これは面白い本だった。私は、遠い昔、高校の国語の教師をやっていたことがあるので、こういう本を見ると、う~ん、授業に使いたいなあと思ってしまう。クリエイターのいとうせいこうさんと小説家の奥泉光さんは、年に数回(もう40回くらい)「文芸漫談」というライブイベントをやっているのだそうだ。ひとつの文学作品を決めて、二人でああだこうだと語り合うイベントである。これまでにも二人の文芸漫談を活字化した『小説の聖典(バイブル)』『世界文学は面白い。』を刊行しているが、本書は夏目漱石(1867-1916)生誕150周年を記念して、漱石の8作品が取り上げられている。各作品に独特のキャッチフレーズをつけた各章のタイトルを眺めてもらうと、本書の雰囲気が分かるだろう。
・鮮血飛び散る過剰スプラッター小説『こころ』
・「青春小説」に見せかけた超「実験小説」『三四郎』
・猫温泉にゆっくりお入りください『吾輩は猫である』
・ちょっと淋しい童貞小説『坊っちゃん』
・反物語かつ非人情『草枕』
・人生の苦さをぐとかみしめる『門』
・ディスコミュニケーションを正面から捉えた『行人』
・プロレタリア文学の先駆け『坑夫』
はじめに『こころ』の導入部の「つまらなさ」を、奥泉さんは「ネタバレしたミステリーを読むときと同じ」と喝破する。漱石は、けっこう注意深く読者の興味を掻き立てながら、衝撃の結末に導こうとしているのだが、今やこの「国民的ネタバレ小説」の結末を知らずに読む日本人は、ほぼいないので、漱石の苦心は水の泡となっている。しかし、ネタバレしていても楽しみ方はいろいろある。「出だしは完全にBL(ボーイズ・ラブ)」という指摘には笑った。そうだよねえ、出会いは海水浴場だし。Kと先生の関係もあやしい。
『吾輩は猫である』は奥泉さんの大好きな作品で、譬えていえば『猫』を読んだことがない人は砂漠の民であるという。自分は『猫』という温泉に浸かっている。「猫温泉のよさを教えてください」と言われても「お前も入れよ」としか言いようがない。この比喩はいいなあ、「好き」ってそういうことだ、と心から納得できる。そして、小説の一部がいろいろ紹介されているのだが、どの短章を読んでも、うっとりして気持ちがよくなる。小説の妙味はストーリーではなく、落語や俳諧や漢詩漢文と同じ「言葉」そのものだということが感じられる。
『門』について、二人とも若い時は地味で辛気臭い話だと思って敬遠していたという。そうかあ、私は大学生の頃には、すでに好きな作品だった。具体的にどこが好きだったかはよく覚えていないのだが、今回、引用されている文章のいくつかが素晴らしすぎて、冷や汗が出た。二人が「くわー!なにこれ?」「このくだりを読んだ瞬間、ぱたりと本を取り落としました」「天才ですよね」と感極まっていくのも道理。
私が唯一読んだことのない『坑夫』も、「プロレタリア文学の先駆け」では片付けられない、「反物語のエッジ」が効いた実験的な作品だと分かって、すごく読んでみたくなった。あと、漱石作品に一貫して現れる主題が「ディスコミュニケーション」だという指摘も非常にうなずける。でも、読者はそこに、自分と同じ淋しい人間を発見することで、少し癒されるのだと思う。
読書を楽しむ方法のひとつとして、一時期、ビブリオバトルというのが流行ったが(今でも流行っているのか?)、私は、自分の読みを巧みにプレゼンすることには、あまり興味を持てなかった。それよりは本書のように「漫談」の形式で、相手の話を聞きながら、自分の読みがどんどん変わっていく経験のほうがずっと面白いと思う。「文芸漫談のようなことはそこかしこで起こるべきなんだよ」という奥泉さんの発言に賛成する。特に漱石作品は、もっと教科書の中から解き放たれて、「対話の中で笑い声とともに」読まれますように。それが本来の姿だと思うから。
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・鮮血飛び散る過剰スプラッター小説『こころ』
・「青春小説」に見せかけた超「実験小説」『三四郎』
・猫温泉にゆっくりお入りください『吾輩は猫である』
・ちょっと淋しい童貞小説『坊っちゃん』
・反物語かつ非人情『草枕』
・人生の苦さをぐとかみしめる『門』
・ディスコミュニケーションを正面から捉えた『行人』
・プロレタリア文学の先駆け『坑夫』
はじめに『こころ』の導入部の「つまらなさ」を、奥泉さんは「ネタバレしたミステリーを読むときと同じ」と喝破する。漱石は、けっこう注意深く読者の興味を掻き立てながら、衝撃の結末に導こうとしているのだが、今やこの「国民的ネタバレ小説」の結末を知らずに読む日本人は、ほぼいないので、漱石の苦心は水の泡となっている。しかし、ネタバレしていても楽しみ方はいろいろある。「出だしは完全にBL(ボーイズ・ラブ)」という指摘には笑った。そうだよねえ、出会いは海水浴場だし。Kと先生の関係もあやしい。
『吾輩は猫である』は奥泉さんの大好きな作品で、譬えていえば『猫』を読んだことがない人は砂漠の民であるという。自分は『猫』という温泉に浸かっている。「猫温泉のよさを教えてください」と言われても「お前も入れよ」としか言いようがない。この比喩はいいなあ、「好き」ってそういうことだ、と心から納得できる。そして、小説の一部がいろいろ紹介されているのだが、どの短章を読んでも、うっとりして気持ちがよくなる。小説の妙味はストーリーではなく、落語や俳諧や漢詩漢文と同じ「言葉」そのものだということが感じられる。
『門』について、二人とも若い時は地味で辛気臭い話だと思って敬遠していたという。そうかあ、私は大学生の頃には、すでに好きな作品だった。具体的にどこが好きだったかはよく覚えていないのだが、今回、引用されている文章のいくつかが素晴らしすぎて、冷や汗が出た。二人が「くわー!なにこれ?」「このくだりを読んだ瞬間、ぱたりと本を取り落としました」「天才ですよね」と感極まっていくのも道理。
私が唯一読んだことのない『坑夫』も、「プロレタリア文学の先駆け」では片付けられない、「反物語のエッジ」が効いた実験的な作品だと分かって、すごく読んでみたくなった。あと、漱石作品に一貫して現れる主題が「ディスコミュニケーション」だという指摘も非常にうなずける。でも、読者はそこに、自分と同じ淋しい人間を発見することで、少し癒されるのだと思う。
読書を楽しむ方法のひとつとして、一時期、ビブリオバトルというのが流行ったが(今でも流行っているのか?)、私は、自分の読みを巧みにプレゼンすることには、あまり興味を持てなかった。それよりは本書のように「漫談」の形式で、相手の話を聞きながら、自分の読みがどんどん変わっていく経験のほうがずっと面白いと思う。「文芸漫談のようなことはそこかしこで起こるべきなんだよ」という奥泉さんの発言に賛成する。特に漱石作品は、もっと教科書の中から解き放たれて、「対話の中で笑い声とともに」読まれますように。それが本来の姿だと思うから。