見もの・読みもの日記

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文豪と二人の弟/森家三兄弟(文京区立森鴎外記念館)

2017-07-24 21:24:24 | 行ったもの(美術館・見仏)
文京区立森鴎外記念館 コレクション展『森家三兄弟-鴎外と二人の弟』(2017年7月7日~10月1日)

 鴎外記念館の展示はときどき見に行くが、よくネタを見つけてくるなあと感心している。今回は、森鴎外(1862-1922)と二人の弟にスポットを当てる。5歳年下の篤次郎(とくじろう、1867-1908)と17歳年下の潤三郎(じゅんざぶろう、1879-1944)である。鴎外関係の著作を読んでいると、しばしば出会う名前だが、あらためて知りたいと思って見に行った。

 三人の生涯を並べた壁の年表にしばらく見入ってしまった。篤次郎は、三木竹二の筆名を持ち、鴎外と共に西洋詩や演劇論を翻訳し、鴎外主宰の雑誌『しがらみ草紙』『めさまし草』などの編集にも関わった。しかし、鴎外と同じく本業(?)は医者で、帝国大学医科大学を卒業後、帝大附属第一医院脚気病室(!)の助手となり、駒場の農科大学で校医をつとめたりした。その後は診療所を開設して医者をしながら、劇評などの文筆活動もおこなった。いいなあ、こういう趣味と本業の両立生活。本業の医学に関しては、鴎外らが刊行した雑誌『公衆医事』を手伝い、発行所を篤次郎の自宅に置いた。展示品の中には、明治39年の雑誌『歌舞伎』に寄稿した「玉藻前の狂言に就て」があって内容が気になった(9月の文楽公演は『玉藻前曦袂(たまものまえあさひのたもと)』なので)。明治37年の市川団子からの葉書があったが、これは二代目市川猿之助なのだな。明治41年の雑誌『歌舞伎』第100号の表紙には「故三木竹二君追悼号」とある。

 篤次郎は、明治41年1月10日に享年40で早世した。自筆の『鴎外日記』1月11日条が展示されており、(大坂への出張の帰途)新橋の停車場で潤三郎から篤次郎の急逝を聞いたこと、「医科大学病理解剖室において剖観せんとす」と聞いて、直ちに大学に往き、病理解剖に立ち会ったことが記されている。日記には記述がないが、解説によれば、鴎外は悲しみと疲れから卒倒したらしい。日記には、帰宅後「二男不律八日より咳漱すると聞く」という付け足しがあり、壁の年表で、この年、不律が生後半年で亡くなったことを見ているのでつらかった。

 潤三郎は、鴎外の両親たちが上京したあと、向島の生まれである。東京専門学校の史学科を出て、東大資料編纂掛(という表記だったと思うが、今の史料編纂所のことか)に勤務し、30才で京都府図書館の書記になり、司書に昇進した(書記より司書がえらいのか。なるほど)。大正4年、大正天皇の即位式に出席するため、京都を訪れた鴎外は潤三郎の家に滞在し、合間に寺や古人の墓をめぐっている。展示の『盛儀私記』(活字版だが私家版)には、嵯峨野にある伊藤仁斎、東涯の墓所を詣でたことが記されていた。その後、潤三郎は東京に戻って、東京帝国大学伝染病研究所(今の医科学研究所)の図書室に勤務していたというのにも驚いた。医科研の図書室を探したら、何か勤務の痕跡でも出てくるだろうか。篤次郎が医学と演劇論で文豪・鴎外の前半生を伴走したように、潤三郎は、鴎外が晩年に取り組んだ史伝小説において、史料蒐集や調査を引き受けた。まるで計画されていたような、二人の弟の役割分担である。

 展示品に蘆舟手記『廉塾雑記』という冊子があった。蘆舟は陸奥の僧で廉塾(菅茶山の私塾)の書生という説明があり、『北条霞亭』の資料であるとのこと。無罫の和紙や罫紙にいろいろ書き留めたものが綴じられている。表紙は見えなかったが、鴎外自筆の題箋が付くそうだ。苦笑したのは「東京大学附属図書館に寄贈されたが、潤三郎が取り戻して所持していたという」との説明。鴎外の旧蔵書が東大に寄贈されたのは大正15年(1926)1月のことだ。潤三郎は、鴎外の業績や実像を正しく後世に残そうと全集や評伝の刊行に努めたというし、東大に遺贈した鴎外旧蔵書の行方についても、いろいろ気を揉んでいたのではないかなあと想像する。東大附属図書館が、一般の蔵書に紛れていた鴎外旧蔵書を集めなおして別置したのは今世紀の仕事だが、今の状況に潤三郎氏は満足してくれるだろうか。
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