〇小野寺史郎『中国ナショナリズム:民族と愛国の近現代史』(中公新書) 中央公論新社 2017.6
国際社会における存在感を増すとともに、周辺諸国と数多くの摩擦を引き起こしている中国。その背景には「近年の中国における急激なナショナリズムの高まり」がある。本書は、中国ナショナリズムを「近代以来の歴史的過程のなかで形成されてきたもの」と考え、その形成過程を考察したものである。
序章で伝統中国の世界観をざっとおさらいするが、本格的な考察の対象となるのは清末・光緒帝の時代からだ。日清戦争に敗北し、諸外国の影響(圧力)は不可避なものとなり、歴史上はじめて「王朝」ではなく「国」を意識する人々が現れる。梁啓超を代表格とする清末の知識人たちによって、はじめて「中国」という観念が成立し、「瓜分(領土喪失)」の危機感を伴って「領土」意識が生まれる。このことが現在に至る中国の領土問題に対する敏感さの一因になっているという。
また、中国の領土内に居住する多数のエスニック集団をどう規定するかも大問題だった。「中国」「中華」は漢人を指すという理解の一方、漢・満・蒙・回・蔵の融合したものが「中華」民族であるという主張もあった。20世紀初頭には、戊戌変法の失敗により処刑された人々を追悼する「烈士記念」、日本との間に起きた第二辰丸事件に由来する「国恥記念」というナショナリズム文化が生まれた。中国における「記念」は、他国から強いられた屈従を思い出し、雪辱を期すためのものとして定着した(実は当時の日本の政治文化に影響を受けている)。
こうしてみると、現代中国の「ナショナリズム的なふるまい」の源流は、だいたい20世紀初頭に形成されたと言っていいような気がする。ただし、これが順調に継承されてきたわけではなく、いろいろな揺れがある。「民族」をどう考えるかなどは、その最たるものだ。また、辛亥革命が成立すると、新国家の式典は、追悼や雪辱の記念ではなく、文明的な娯楽を市民が享受する日となり、モデルは日本ではなく、当時、数少ない共和制の大国だったフランスやアメリカが選ばれた(あ、この歴史を意識している日本人は少ないんじゃないかな)。
しかし第一次大戦の終結後、日本の二十一カ条撤廃を要求した五四運動は、中国ナショナリズムに大きな影響をもたらす。「親日派」の否定的含意を決定的にしたこと、という指摘よりも、私は「政治がナショナリズムに基づく要求を実現できない場合、暴力を含む社会の直接行動でそれを行う、そしてその行動は既存の法律に反しても正当化されるという観念が広まったこと」というのが、より重要だと思った。この観念を日本は共有していない。
そして日中戦争の時代があり、共産党の下で、日本に融和的な(指導者層と日本国民を区別した)戦後処理が行われる。これについて、「主要敵」以外の勢力には一定の譲歩を行うというのが毛沢東の一貫した外交政策だったから、という冷めた分析をしているのは面白いと思った。当時の中国にとっての「主要敵」はアメリカである。朝鮮戦争が中国ナショナリズムに与えた影響は非常に大きかった。朝鮮戦争という名前にまどわされて忘れがちだが、中国とアメリカが、わずか70年ほど前に、直接、戦ったことがあるというのは重要なことだ。
さらに本書は、天安門事件、日中歴史認識問題、愛国(≒反日)教育(といわれるもの)などに触れる。しかし私は、やっぱり中国ナショナリズムの源流は、10年やそこらの愛国教育キャンペーンよりも、100年単位の歩みにあるのではないかと思う。なお本書は、2008年の北京オリンピック開会式の演出が中国の「伝統文化」を強く押し出したものだったことに言及しているが、私としては、この数年、中国の非常に古い時代を舞台にしたドラマや映画の製作が目立つことを併せて指摘しておきたい。なんとなく気分はナショナリズムの昂揚と通底している気がする。いや、ドラマは中身が面白ければいいのだけど。
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序章で伝統中国の世界観をざっとおさらいするが、本格的な考察の対象となるのは清末・光緒帝の時代からだ。日清戦争に敗北し、諸外国の影響(圧力)は不可避なものとなり、歴史上はじめて「王朝」ではなく「国」を意識する人々が現れる。梁啓超を代表格とする清末の知識人たちによって、はじめて「中国」という観念が成立し、「瓜分(領土喪失)」の危機感を伴って「領土」意識が生まれる。このことが現在に至る中国の領土問題に対する敏感さの一因になっているという。
また、中国の領土内に居住する多数のエスニック集団をどう規定するかも大問題だった。「中国」「中華」は漢人を指すという理解の一方、漢・満・蒙・回・蔵の融合したものが「中華」民族であるという主張もあった。20世紀初頭には、戊戌変法の失敗により処刑された人々を追悼する「烈士記念」、日本との間に起きた第二辰丸事件に由来する「国恥記念」というナショナリズム文化が生まれた。中国における「記念」は、他国から強いられた屈従を思い出し、雪辱を期すためのものとして定着した(実は当時の日本の政治文化に影響を受けている)。
こうしてみると、現代中国の「ナショナリズム的なふるまい」の源流は、だいたい20世紀初頭に形成されたと言っていいような気がする。ただし、これが順調に継承されてきたわけではなく、いろいろな揺れがある。「民族」をどう考えるかなどは、その最たるものだ。また、辛亥革命が成立すると、新国家の式典は、追悼や雪辱の記念ではなく、文明的な娯楽を市民が享受する日となり、モデルは日本ではなく、当時、数少ない共和制の大国だったフランスやアメリカが選ばれた(あ、この歴史を意識している日本人は少ないんじゃないかな)。
しかし第一次大戦の終結後、日本の二十一カ条撤廃を要求した五四運動は、中国ナショナリズムに大きな影響をもたらす。「親日派」の否定的含意を決定的にしたこと、という指摘よりも、私は「政治がナショナリズムに基づく要求を実現できない場合、暴力を含む社会の直接行動でそれを行う、そしてその行動は既存の法律に反しても正当化されるという観念が広まったこと」というのが、より重要だと思った。この観念を日本は共有していない。
そして日中戦争の時代があり、共産党の下で、日本に融和的な(指導者層と日本国民を区別した)戦後処理が行われる。これについて、「主要敵」以外の勢力には一定の譲歩を行うというのが毛沢東の一貫した外交政策だったから、という冷めた分析をしているのは面白いと思った。当時の中国にとっての「主要敵」はアメリカである。朝鮮戦争が中国ナショナリズムに与えた影響は非常に大きかった。朝鮮戦争という名前にまどわされて忘れがちだが、中国とアメリカが、わずか70年ほど前に、直接、戦ったことがあるというのは重要なことだ。
さらに本書は、天安門事件、日中歴史認識問題、愛国(≒反日)教育(といわれるもの)などに触れる。しかし私は、やっぱり中国ナショナリズムの源流は、10年やそこらの愛国教育キャンペーンよりも、100年単位の歩みにあるのではないかと思う。なお本書は、2008年の北京オリンピック開会式の演出が中国の「伝統文化」を強く押し出したものだったことに言及しているが、私としては、この数年、中国の非常に古い時代を舞台にしたドラマや映画の製作が目立つことを併せて指摘しておきたい。なんとなく気分はナショナリズムの昂揚と通底している気がする。いや、ドラマは中身が面白ければいいのだけど。