〇辻田真佐憲『空気の検閲:大日本帝国の表現規制』(光文社新書) 光文社 2018.3
1928年から1945年までの間、帝国日本で行われた検閲の実態を紹介する。これ以前については、1923年の関東大震災で内務省の庁舎が火災に遭い、多くの資料が灰燼に帰してしまったため、分からないことが多いのだそうだ。この時期以降は、左翼運動の取り締まりのため、検閲機構が拡充され、資料も豊富に残り、比較的自由だったエロ・グロ・ナンセンスの時代から、日中戦争・太平洋戦争を背景に安寧秩序紊乱の禁止へという、大きな変化を確認することができる。
はじめに活写されるのは、昭和初期(1928-1931年)、エロ・グロ・ナンセンスと呼ばれる享楽的な出版物と検閲官の戦いである。「検閲は怖いもの、民主主義の敵」を身構えて本書を読み始めると、この第1章で腰砕けになる。性器、性欲、性行為などの露骨な描写、サディズム、マゾヒズム、獣姦などの変態性欲、不倫や姦通などの乱倫などが取り締まり対象となった。本書には、「風俗紊乱」の当該箇所が豊富に引用されていて、電車の中などで読むには、ちょっと勇気がいる。
著者によれば、出版物の点数に対して検察官の数は少なく「閲覧地獄」と言われるほど、仕事は激務だったらしい。中には文学の素養のある検閲官もいて、淫本に対して、妙に味わい深い評言を残していたりする。また出版人や言論人としては、発禁処分をくらっては元も子もないので、伏字を用いたり表現を控えめにしたり、巧みな対抗措置をとった。検閲官の側でも「注意処分」を多発するなど、柔軟な駆け引きが存在した。いまの中国が、検閲制度があるわりには元気なのは、こういう状況なのかもしれないと思った。
内外の世相が緊迫した1932-1936年、検閲は「風俗壊乱の禁止」よりも「安寧秩序紊乱の禁止」に重点が置かれるようになる。「履中天皇」を「履仲天皇」と誤って咎められたとか、自称「天照大神」という名刺(これも印刷物)が発禁にされた、などは笑い話めくが、関東大震災時に発生した朝鮮人虐殺について「街頭の示威運動にて六千の虐殺同胞を追悼しやう!」等の宣伝印刷物が発禁処分にされていることは、忘れないでおきたい。その一方、右翼の宣伝歌『青年日本の歌』(昭和維新の歌)を掲載した報知新聞も「直接行動(テロ)を宣伝せる」という理由で発禁になっている。検察官は、右翼にも左翼にも苦労していたのだ。
また美濃部達吉の天皇機関説事件では、蓑田胸喜が何度も図書課を訪れ、大声をあげて内務官僚を叱咤し、美濃部の著作の発禁処分を求めていたらしい。いつの時代も官僚はつらいものだ。「右翼が叫び、世間が動けば、検察官もそれに寄り添っていく」という著者の言葉は、妙にタイムリーに響いた。
この頃、植民地(台湾、朝鮮)では内地と異なる検閲事情があった。たとえばガンジーやネルーの反英運動、民族自決運動に関する記事は、内地では問題ないが、植民地ではたびたび削除になった。植民地の被支配民族に民族自決を意識されては困るからである。
日中戦争が始まると(1937-1941年)軍事機密に関する検閲・掲載禁止はいよいよ厳しくなった。また、これまでの事後検閲ではどうしても不適切な記事が出回ってしまうことから、東京の主要7紙および同盟通信社を図書館の直轄とし(!)各社の担当者は検察官と相談しながら記事を組み立てられるようになった。これは淡々と語られているが、恐ろしい事態だと思う。なお、冷遇された地方紙・業界紙には、主要紙なら絶対に載らないような不適切で具体的な記事が見られるというのは興味深い。
1940年12月には各省にまたがる「情報局」が摂津された。太平洋戦争突入後(1941-1945年)、軍部や情報局が筆者や出版社を呼びつけたり脅したりするケースが増え、正規の検閲機関を自負する内務省は、強い不満を感じていた。セクショナリズムといえばそれまでだが、実際、検察官が陸軍の介入に抵抗する事件もあった。戦時下で処分対象になった記事の中では、『地湧日本』に掲載された「ごみばこいぢりの名犬よ目覚めよ」が印象的だ。ゴミ箱いじりの犬とは、もちろん東条首相を指している。
また谷崎純一郎の『細雪』も連載中止を求められた。むかし読んだとき、特にエロでも不道徳でもないのに、どこが悪いんだろう?と不思議な気がしたが、陸軍報道部の軍人による「われわれのもっとも自戒すべき軟弱かつはなはだしく個人主義的な女人の生活をめんめんと書きつらねた」という糾弾は、逆にこの小説の魅力と価値を正しく指摘しているように思える。検閲とは面白いものである。
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はじめに活写されるのは、昭和初期(1928-1931年)、エロ・グロ・ナンセンスと呼ばれる享楽的な出版物と検閲官の戦いである。「検閲は怖いもの、民主主義の敵」を身構えて本書を読み始めると、この第1章で腰砕けになる。性器、性欲、性行為などの露骨な描写、サディズム、マゾヒズム、獣姦などの変態性欲、不倫や姦通などの乱倫などが取り締まり対象となった。本書には、「風俗紊乱」の当該箇所が豊富に引用されていて、電車の中などで読むには、ちょっと勇気がいる。
著者によれば、出版物の点数に対して検察官の数は少なく「閲覧地獄」と言われるほど、仕事は激務だったらしい。中には文学の素養のある検閲官もいて、淫本に対して、妙に味わい深い評言を残していたりする。また出版人や言論人としては、発禁処分をくらっては元も子もないので、伏字を用いたり表現を控えめにしたり、巧みな対抗措置をとった。検閲官の側でも「注意処分」を多発するなど、柔軟な駆け引きが存在した。いまの中国が、検閲制度があるわりには元気なのは、こういう状況なのかもしれないと思った。
内外の世相が緊迫した1932-1936年、検閲は「風俗壊乱の禁止」よりも「安寧秩序紊乱の禁止」に重点が置かれるようになる。「履中天皇」を「履仲天皇」と誤って咎められたとか、自称「天照大神」という名刺(これも印刷物)が発禁にされた、などは笑い話めくが、関東大震災時に発生した朝鮮人虐殺について「街頭の示威運動にて六千の虐殺同胞を追悼しやう!」等の宣伝印刷物が発禁処分にされていることは、忘れないでおきたい。その一方、右翼の宣伝歌『青年日本の歌』(昭和維新の歌)を掲載した報知新聞も「直接行動(テロ)を宣伝せる」という理由で発禁になっている。検察官は、右翼にも左翼にも苦労していたのだ。
また美濃部達吉の天皇機関説事件では、蓑田胸喜が何度も図書課を訪れ、大声をあげて内務官僚を叱咤し、美濃部の著作の発禁処分を求めていたらしい。いつの時代も官僚はつらいものだ。「右翼が叫び、世間が動けば、検察官もそれに寄り添っていく」という著者の言葉は、妙にタイムリーに響いた。
この頃、植民地(台湾、朝鮮)では内地と異なる検閲事情があった。たとえばガンジーやネルーの反英運動、民族自決運動に関する記事は、内地では問題ないが、植民地ではたびたび削除になった。植民地の被支配民族に民族自決を意識されては困るからである。
日中戦争が始まると(1937-1941年)軍事機密に関する検閲・掲載禁止はいよいよ厳しくなった。また、これまでの事後検閲ではどうしても不適切な記事が出回ってしまうことから、東京の主要7紙および同盟通信社を図書館の直轄とし(!)各社の担当者は検察官と相談しながら記事を組み立てられるようになった。これは淡々と語られているが、恐ろしい事態だと思う。なお、冷遇された地方紙・業界紙には、主要紙なら絶対に載らないような不適切で具体的な記事が見られるというのは興味深い。
1940年12月には各省にまたがる「情報局」が摂津された。太平洋戦争突入後(1941-1945年)、軍部や情報局が筆者や出版社を呼びつけたり脅したりするケースが増え、正規の検閲機関を自負する内務省は、強い不満を感じていた。セクショナリズムといえばそれまでだが、実際、検察官が陸軍の介入に抵抗する事件もあった。戦時下で処分対象になった記事の中では、『地湧日本』に掲載された「ごみばこいぢりの名犬よ目覚めよ」が印象的だ。ゴミ箱いじりの犬とは、もちろん東条首相を指している。
また谷崎純一郎の『細雪』も連載中止を求められた。むかし読んだとき、特にエロでも不道徳でもないのに、どこが悪いんだろう?と不思議な気がしたが、陸軍報道部の軍人による「われわれのもっとも自戒すべき軟弱かつはなはだしく個人主義的な女人の生活をめんめんと書きつらねた」という糾弾は、逆にこの小説の魅力と価値を正しく指摘しているように思える。検閲とは面白いものである。