〇馬場公彦『世界史のなかの文化大革命』(平凡社新書) 平凡社 2018.9
先日読んだ楊海英氏の『「知識青年」の1968年』が面白かったので、文革本をもう1冊、と思って読み始めた。「世界史のなかの文化大革命」というので、中国国内と国外を行ったり来たりするような記述になるのかと思ったが、国内の具体的な状況はほとんど語られない。本書は、中国における文化大革命という出来事を、ある程度、知っていることを前提に書かれている。
本書が注目するのはインドネシアである。ということを読み始めてから知って、ちょっと困った。私がインドネシア近現代史について知っているのは、スカルノとスハルトの名前くらいで、最近、宮城大蔵氏の『増補 海洋国家日本の戦後史』で聞きかじった程度の知識しかない。自分の知識不足を感じながら、おそるおそる読み進めた。
中国の文化大革命は1966年に始まったが、その前年の1965年、インドネシアでは軍事クーデター「9.30事件」が勃発した。中国とインドネシアは、1955年にインドネシアのバンドンで開催されたアジア・アフリカ会議(AA会議)以降、非同盟主義の第三勢力どうしの友好国として緊密な関係を保っていた。スカルノは共産主義者ではなかったが、反帝国主義・反植民地主義の立場から容共的だった。一方、アジアの共産主義化を防ごうとするアメリカの動きを受けて、インドネシアを西側世界に引き留めようとしたのが日本だった。
1965年6月に予定されていた第2回AA会議が流会となり、両国が国際的な孤立化を深めていた10月1日未明、陸軍内部で左派の将官が右派の将官を拉致・殺害する「9.30事件」が発生した。反乱はすぐ鎮圧されたが、陸軍首脳部による反スカルノ・キャンペーンが展開され、スハルト陸相は、インドネシア共産党の非合法化と解散を決定し、67年3月にはスカルノから大統領終身制を剥奪し、大統領代行、ついで大統領に就任した。政変の発端となった「9.30事件」については、中国共産党の関与も疑われているが、今も真相は明らかでない。この影響として、インドネシアでは共産主義者に対する軍の掃討作戦と住民による「赤狩り」及び華僑迫害が全土に広がり、すでに米ソと対立していた中国は、完全に国際的孤立状態となった。本書は、端的に言えばこの状況が毛沢東の世界革命への情熱に火をつけたと考える。
ちなみに、毛沢東は文革発動の直前に日本共産党代表団と会談している。1966年3月、宮本顕治書記長を代表とする代表団が毛を訪問したが、ソ連とも中国とも距離を置き、自主路線を志向する日本共産党とは意見の一致を見ず、共同コミュニケ案は破棄された。このことは中国の国際的孤立に拍車をかけ、翌3月30日、毛は四人組を含む文革派と会談して「打倒閻王、解放小鬼」を指示する。この時系列は、日本でも中国でもあまり注目されていないのではないかと思う。
たちまち中国全土に広がった文革は、第三勢力の諸国や発展途上国だけでなく、アメリカやフランスなど西側諸国にも影響を与えた。日本については、高橋和巳や小田実、大宅壮一、藤原弘達など、当時の知識人・ジャーナリストの反応を丹念に整理しているのが興味深い。また、同じ頃、アメリカの若いアジア研究者の間では、従来のアジア研究が政府の対アジア政策実行の道具となっていたことの反省に基づき、CCAS(Committee of Concerned Asian Studies)という運動体が生まれ、ここからジョン・ダワーやハーバート・ビックスらが誕生し、日本のアジア研究にも影響を与えていく。この研究活動史も非常に面白い。
さて著者は再びインドネシアに戻り、「9.30事件」以降の在インドネシア華人、あるいは迫害から逃れて中国や台湾に渡った華人たちをレポートする。今も苦難を生きる人々の話を読むのは辛い。そしてインドネシアと中国の関係が、こんなに長く複雑な歴史を持っているということを初めて知った。
文革の終わりは1976年、周恩来と毛沢東の最後の年ということになっている。日本では1972年のあさま山荘事件が、文革と毛沢東思想に少なからず影響された革命左派の妄想を完全に沈静化させた。そして、このときから日本にとっての中国は、自画像を投影し自己改革の希望を託す対象としての「内なる中国」から、分析と解釈の対象としての「外なる中国」に変化した。この指摘は妥当だと思うし、面白い。つまり文革は、日本と中国の千五百年の歴史を覆す、不可逆的な変化をもたらしたのではないかと思う。
先日読んだ楊海英氏の『「知識青年」の1968年』が面白かったので、文革本をもう1冊、と思って読み始めた。「世界史のなかの文化大革命」というので、中国国内と国外を行ったり来たりするような記述になるのかと思ったが、国内の具体的な状況はほとんど語られない。本書は、中国における文化大革命という出来事を、ある程度、知っていることを前提に書かれている。
本書が注目するのはインドネシアである。ということを読み始めてから知って、ちょっと困った。私がインドネシア近現代史について知っているのは、スカルノとスハルトの名前くらいで、最近、宮城大蔵氏の『増補 海洋国家日本の戦後史』で聞きかじった程度の知識しかない。自分の知識不足を感じながら、おそるおそる読み進めた。
中国の文化大革命は1966年に始まったが、その前年の1965年、インドネシアでは軍事クーデター「9.30事件」が勃発した。中国とインドネシアは、1955年にインドネシアのバンドンで開催されたアジア・アフリカ会議(AA会議)以降、非同盟主義の第三勢力どうしの友好国として緊密な関係を保っていた。スカルノは共産主義者ではなかったが、反帝国主義・反植民地主義の立場から容共的だった。一方、アジアの共産主義化を防ごうとするアメリカの動きを受けて、インドネシアを西側世界に引き留めようとしたのが日本だった。
1965年6月に予定されていた第2回AA会議が流会となり、両国が国際的な孤立化を深めていた10月1日未明、陸軍内部で左派の将官が右派の将官を拉致・殺害する「9.30事件」が発生した。反乱はすぐ鎮圧されたが、陸軍首脳部による反スカルノ・キャンペーンが展開され、スハルト陸相は、インドネシア共産党の非合法化と解散を決定し、67年3月にはスカルノから大統領終身制を剥奪し、大統領代行、ついで大統領に就任した。政変の発端となった「9.30事件」については、中国共産党の関与も疑われているが、今も真相は明らかでない。この影響として、インドネシアでは共産主義者に対する軍の掃討作戦と住民による「赤狩り」及び華僑迫害が全土に広がり、すでに米ソと対立していた中国は、完全に国際的孤立状態となった。本書は、端的に言えばこの状況が毛沢東の世界革命への情熱に火をつけたと考える。
ちなみに、毛沢東は文革発動の直前に日本共産党代表団と会談している。1966年3月、宮本顕治書記長を代表とする代表団が毛を訪問したが、ソ連とも中国とも距離を置き、自主路線を志向する日本共産党とは意見の一致を見ず、共同コミュニケ案は破棄された。このことは中国の国際的孤立に拍車をかけ、翌3月30日、毛は四人組を含む文革派と会談して「打倒閻王、解放小鬼」を指示する。この時系列は、日本でも中国でもあまり注目されていないのではないかと思う。
たちまち中国全土に広がった文革は、第三勢力の諸国や発展途上国だけでなく、アメリカやフランスなど西側諸国にも影響を与えた。日本については、高橋和巳や小田実、大宅壮一、藤原弘達など、当時の知識人・ジャーナリストの反応を丹念に整理しているのが興味深い。また、同じ頃、アメリカの若いアジア研究者の間では、従来のアジア研究が政府の対アジア政策実行の道具となっていたことの反省に基づき、CCAS(Committee of Concerned Asian Studies)という運動体が生まれ、ここからジョン・ダワーやハーバート・ビックスらが誕生し、日本のアジア研究にも影響を与えていく。この研究活動史も非常に面白い。
さて著者は再びインドネシアに戻り、「9.30事件」以降の在インドネシア華人、あるいは迫害から逃れて中国や台湾に渡った華人たちをレポートする。今も苦難を生きる人々の話を読むのは辛い。そしてインドネシアと中国の関係が、こんなに長く複雑な歴史を持っているということを初めて知った。
文革の終わりは1976年、周恩来と毛沢東の最後の年ということになっている。日本では1972年のあさま山荘事件が、文革と毛沢東思想に少なからず影響された革命左派の妄想を完全に沈静化させた。そして、このときから日本にとっての中国は、自画像を投影し自己改革の希望を託す対象としての「内なる中国」から、分析と解釈の対象としての「外なる中国」に変化した。この指摘は妥当だと思うし、面白い。つまり文革は、日本と中国の千五百年の歴史を覆す、不可逆的な変化をもたらしたのではないかと思う。