〇吉見俊哉『トランプのアメリカに住む』(岩波新書) 岩波書店 2018.9
著者は2017年9月から18年6月までの10か月間、ハーバード大学で教えるために渡米し、トランプ政権の1年目から2年目のアメリカを体験した。本書は、著者が滞在することになったライシャワー邸を取り巻く豊かな自然、日本から送った小包6箱(中身は本と資料)のうち4箱が途中で消えてしまったトラブルなど、身辺雑記的な記述を織り交ぜながら、メディアを通して見る今日のアメリカと、著者の思索を通して歴史的・地理的パースペクティブの中に浮かび上がるアメリカが、重層的に語られている。堀田善衛の『インドで考えたこと』など、いくつかの新書の名著を思い出すスタイルである。
以下に印象的な記述を拾っていくが、はじめに哲学者ローティの「予言的批判」が参照される。ローティによれば、かつてアメリカの左翼的知性は、マルクス主義よりも、市場主義の是正と富の公正な再分配に取り組んでいた。しかし、70年代以降の知識人が、文化をめぐる抽象的な理論に囚われ、経済的格差の問題に背を向けてきた結果、社会は内側から劣化し、過去半世紀の改善の成果が台無しになりつつある。日本を代表するカルチュラル・スタディーズの研究者である著者は「私はこのローティの批判を真摯に受け止めなければならない」と言う。ただし、文化や理論についての議論を停止するのではなく、「理論自体を未来への回路としていく道」を探すという困難な課題設定の下に、本書は書き進められていく。
第1章は「ポスト真実」をテーマに、2016年の大統領選におけるロシアの関与疑惑と偽ニュースの影響を、公表されている調査をもとに検証する。偽ニュースとインターネット(ソーシャルメディア)の親和性は恐ろしいほどで、しかも「こうした自己閉塞的な政治的ファンタジーへの回路が、高度なアルゴリズムによって精密に設計可能になっている」という指摘は悪夢的である。このディストピアを人間は回避することができるのだろうか。
第2章は「星条旗とスポーツの間」で、アメリカの国旗・国歌の歴史が興味深く、公定の国歌とは別に、人気の高い「国民歌」(「アメリカ」「コロンビア万歳」など)があるというのは、実は多くの国家に当てはまるのではないか。後日談として、想田和弘監督のドキュメンタリー映画『ザ・ビッグハウス』への言及があり、アメリカにおける「スポーツ」と「軍事」と「宗教」の共振関係、さらにこれは「アメリカの大学についての映画」だという指摘が面白かった。やっぱりこの映画、見に行こう。
第3章を後回しにして、第4章は「性と銃のトライアングル」、すなわちトランプ政権下で続出したセクハラ問題と銃乱射事件を考える。著者は、アメリカ開拓が処女地の征服として表象されているとおり、この倒錯から出発した国が、内部に隠蔽してきた暴力と虐待の記憶、そして他者への恐怖が、二つの事件の根底にあると考える。これは、かなり文化的コンテキストの読みの問題になり、賛否が分かれるかもしれないが、興味深かった。
第5章は「反転したアメリカンドリーム」で、日本から送った船便小包の紛失をマクラに、公共インフラの壊滅的な劣化と、トランプ支持層と言われるラストベルトの労働者の「貧困の文化」を考える。20世紀の大衆にとっての「アメリカンドリーム」は、無一文から億万長者になることではなく、全ての国民が中産階級的な生活に到達することだった(この指摘は、習近平の掲げる「中国夢」を思い出させる)。しかし、今日、中産階級的な生活に慣れた白人労働者たちは、貧困への転落に怯えている。彼らが求めているのは「生活」と「誇り」で、IT産業の下請けになるよりも「汗を流して自分の腕で稼ぎたがっている」という。彼らの気持ちは分かるが、コミュニティの立て直しの難しさを感じた。
第6章は「アメリカの鏡・北朝鮮」で、核を徹底的に拒絶した日本の戦後と、巨大な核を持つことでアメリカと対峙しようとした北朝鮮が対比的に語られる。また、冷戦構造の中で、日本人に親米意識を根付かせるために送り込まれたライシャワー大使の功罪が論じられている。戦前の日本が成し遂げた近代化を積極的に肯定し、アジアの中で日本に特権的な地位を与えることで、近隣諸国に対する侵略を免罪した、という指摘は重い。今日でも、ケネディ・ライシャワー戦略の罠に嵌っている日本人は多いのではないかと思う。
さて、第3章「ハーバードで教える」は、もっぱら著者の体験に基づく。契約文化ならではのシラバスの重要性、授業における第三のアクターとしてのTAの役割、単なる感想ではなく構造化された学生による授業評価など、日本の大学がいくら外形的な制度を取り入れても「似て非なる」ハーバードの教育システムが紹介されている。特に、決定権を持つ職員(教員ではない)がいることの重要性には、何十回でも同意したい。日本では大学の諸機能の専門職化が進んでいないため、職員は教授陣の了解なしに物事を決めることを避け、教員は無数の会議で疲弊していく。この非効率性を改めるには、いったいどこから手を付ければいいのだろうか。
終章は、1993-94年のメキシコ滞在に関する旧稿。著者の意図とは異なるかもしれないが、曲がりくねった路地で出会う聖人を祭るパレードなど、エキゾチックな風景が印象に残った。
著者は2017年9月から18年6月までの10か月間、ハーバード大学で教えるために渡米し、トランプ政権の1年目から2年目のアメリカを体験した。本書は、著者が滞在することになったライシャワー邸を取り巻く豊かな自然、日本から送った小包6箱(中身は本と資料)のうち4箱が途中で消えてしまったトラブルなど、身辺雑記的な記述を織り交ぜながら、メディアを通して見る今日のアメリカと、著者の思索を通して歴史的・地理的パースペクティブの中に浮かび上がるアメリカが、重層的に語られている。堀田善衛の『インドで考えたこと』など、いくつかの新書の名著を思い出すスタイルである。
以下に印象的な記述を拾っていくが、はじめに哲学者ローティの「予言的批判」が参照される。ローティによれば、かつてアメリカの左翼的知性は、マルクス主義よりも、市場主義の是正と富の公正な再分配に取り組んでいた。しかし、70年代以降の知識人が、文化をめぐる抽象的な理論に囚われ、経済的格差の問題に背を向けてきた結果、社会は内側から劣化し、過去半世紀の改善の成果が台無しになりつつある。日本を代表するカルチュラル・スタディーズの研究者である著者は「私はこのローティの批判を真摯に受け止めなければならない」と言う。ただし、文化や理論についての議論を停止するのではなく、「理論自体を未来への回路としていく道」を探すという困難な課題設定の下に、本書は書き進められていく。
第1章は「ポスト真実」をテーマに、2016年の大統領選におけるロシアの関与疑惑と偽ニュースの影響を、公表されている調査をもとに検証する。偽ニュースとインターネット(ソーシャルメディア)の親和性は恐ろしいほどで、しかも「こうした自己閉塞的な政治的ファンタジーへの回路が、高度なアルゴリズムによって精密に設計可能になっている」という指摘は悪夢的である。このディストピアを人間は回避することができるのだろうか。
第2章は「星条旗とスポーツの間」で、アメリカの国旗・国歌の歴史が興味深く、公定の国歌とは別に、人気の高い「国民歌」(「アメリカ」「コロンビア万歳」など)があるというのは、実は多くの国家に当てはまるのではないか。後日談として、想田和弘監督のドキュメンタリー映画『ザ・ビッグハウス』への言及があり、アメリカにおける「スポーツ」と「軍事」と「宗教」の共振関係、さらにこれは「アメリカの大学についての映画」だという指摘が面白かった。やっぱりこの映画、見に行こう。
第3章を後回しにして、第4章は「性と銃のトライアングル」、すなわちトランプ政権下で続出したセクハラ問題と銃乱射事件を考える。著者は、アメリカ開拓が処女地の征服として表象されているとおり、この倒錯から出発した国が、内部に隠蔽してきた暴力と虐待の記憶、そして他者への恐怖が、二つの事件の根底にあると考える。これは、かなり文化的コンテキストの読みの問題になり、賛否が分かれるかもしれないが、興味深かった。
第5章は「反転したアメリカンドリーム」で、日本から送った船便小包の紛失をマクラに、公共インフラの壊滅的な劣化と、トランプ支持層と言われるラストベルトの労働者の「貧困の文化」を考える。20世紀の大衆にとっての「アメリカンドリーム」は、無一文から億万長者になることではなく、全ての国民が中産階級的な生活に到達することだった(この指摘は、習近平の掲げる「中国夢」を思い出させる)。しかし、今日、中産階級的な生活に慣れた白人労働者たちは、貧困への転落に怯えている。彼らが求めているのは「生活」と「誇り」で、IT産業の下請けになるよりも「汗を流して自分の腕で稼ぎたがっている」という。彼らの気持ちは分かるが、コミュニティの立て直しの難しさを感じた。
第6章は「アメリカの鏡・北朝鮮」で、核を徹底的に拒絶した日本の戦後と、巨大な核を持つことでアメリカと対峙しようとした北朝鮮が対比的に語られる。また、冷戦構造の中で、日本人に親米意識を根付かせるために送り込まれたライシャワー大使の功罪が論じられている。戦前の日本が成し遂げた近代化を積極的に肯定し、アジアの中で日本に特権的な地位を与えることで、近隣諸国に対する侵略を免罪した、という指摘は重い。今日でも、ケネディ・ライシャワー戦略の罠に嵌っている日本人は多いのではないかと思う。
さて、第3章「ハーバードで教える」は、もっぱら著者の体験に基づく。契約文化ならではのシラバスの重要性、授業における第三のアクターとしてのTAの役割、単なる感想ではなく構造化された学生による授業評価など、日本の大学がいくら外形的な制度を取り入れても「似て非なる」ハーバードの教育システムが紹介されている。特に、決定権を持つ職員(教員ではない)がいることの重要性には、何十回でも同意したい。日本では大学の諸機能の専門職化が進んでいないため、職員は教授陣の了解なしに物事を決めることを避け、教員は無数の会議で疲弊していく。この非効率性を改めるには、いったいどこから手を付ければいいのだろうか。
終章は、1993-94年のメキシコ滞在に関する旧稿。著者の意図とは異なるかもしれないが、曲がりくねった路地で出会う聖人を祭るパレードなど、エキゾチックな風景が印象に残った。