〇渡辺靖『アメリカとは何か:自画像と世界観をめぐる相克』(岩波新書) 岩波書店 2022.8
アメリカといえば、リベラルな民主党と保守的な共和党が交代を繰り返す二大政党制で、比較的分かりやすい政治形態だと思っていた。それが最近いろいろと混沌としてきたのを、あらためて整理し直すのに役立つ本だった。
まず「リベラル」や「保守」の意味は国や地域によって異なる、という注釈に目を開かれる。米国の独立宣言や憲法の基本にあるのは近代啓蒙思想、すなわちヨーロッパ流の「自由主義」で、近代そのものに懐疑的なヨーロッパ流の「保守主義」は希薄である。また強大な中央集権体制を通して社会全体の組織化を目指すヨーロッパ流の「社会主義」も受け入れられていない。ヨーロッパ政治が、社会主義・自由主義・保守主義の三すくみ構造であるのに対して、米国には、自由な市民による統治を肯定する自由主義しか存在せず、その左派を「リベラル」、右派を「保守」と呼んでいるに過ぎない。なるほど、なるほど。
現在の米国の政治的イデオロギーを整理する際によく用いられるのは「ノーラン・チャート」で、個人の自由(社会的自由)と経済的自由を指標とし、以下の四象限に分類する。
個人の自由 | 経済的自由 | イデオロギー |
---|---|---|
重視 | 重視 | リバタリアン |
重視 | 軽視 | リベラル(左派) |
軽視 | 軽視 | 権威主義 |
軽視 | 重視 | 保守主義(右派) |
共和党におけるトランプの台頭は、「権威主義」(民族、国家などの集合的アイデンティティを重視する)が「保守」の象限を侵食しつつあることを意味している。かたや「リベラル」の側のサンダース旋風を支えるのは若者たちである。冷戦時代を直接経験していない若い世代にとって「社会主義」への拒否感は少なく、資本主義こそ「強欲」や「不正義」の権化とみなされているという。ええ、なぜ日本にはこれと同調する動きが少ないのだろう。ともかく民主・共和両党とも主流派の求心力が低下しており、超党派の協力は一層困難になっている。左右のポピュリズムが、実はグローバリズムへの不信を共有しているのに対して、グローバルなヒト・モノ・カネの流れを肯定的に捉えるのがリバタリアニズム(自由至上主義)で、デジタル・ネイティブ世代との親和性を強めている。
イデオロギーの対立は民主主義の健全な姿とも言える。しかし今日の米国は、政治的なトライバリズム(部族主義)に陥っている。「対立や分断がここまで深化した民主主義国家が協調メカニズムを回復した事例はなかなか思い浮かばない」という著者の予言がしみじみと怖い。
具体的には、コロナ禍の下で先鋭化する陰謀論、「Qアノン」現象、BLM運動をめぐる攻防、キャンセル文化とウォーク文化、増加する国内テロ、等々。これがあの、幼い頃(父親の影響もあって)まぶしく見えたアメリカの現状かと思うと愕然とする。
次に国際秩序の中の米国を考える。第二次世界大戦後、米国は、普遍的・協調的な「リベラル国際秩序」の構築を主導したと考えられている。私も教科書でそのように習った。しかし、それは本当に「リベラル」で「国際」的だったのか、そもそも「秩序」だったのかという批判が、欧米内部からも上がっているという。要するに「リベラル国際秩序」とは、米国の国益や覇権を正当化するための方便に過ぎなかったのではないか、という厳しい批判である。
米国の自己認識(リベラル)の揺らぎを横目に、権威主義国家・中国は自信を深めている。なんというかこの構図、アテネとスパルタだな、と思った。米国国内が「リベラル疲れ」でぐだぐだになっている状況も、アテネ民主制の末期を思わせる。著者は米国の将来に関して「楽観的なシナリオ」と「悲観的なシナリオ」を示して本書を終える。どちらが妥当か、私にはよく分からない。むしろ本書を参考にして、私たちが真剣に考えなければいけないのは、「リベラル」が負け続ける日本の将来だと思う。