〇神奈川県立歴史博物館 特別展『源頼朝が愛した幻の大寺院 永福寺と鎌倉御家人-荘厳される鎌倉幕府とそのひろがり-』(2022年10月15日~12月4日)
鎌倉・二階堂の永福寺(ようふくじ)跡に初めて行ったのは、鎌倉在住の友人に誘われた歴史散歩だったように思う。その後、私は逗子に住んだ時期があって、ときどき近傍(2004年の記事)を歩いていた。最近では2017年に訪ねて、すっかり史跡公園として整備された様子を見てびっくりした。
本展は、鎌倉幕府の成立とその展開に深く関わった永福寺に注目し、その全貌と軌跡を、文献資料・考古資料・美術資料などの多彩な歴史資料群から複合的かつ立体的に復原する。そろそろ会期末が近くなってきたので、慌てて見に行ったら、講堂で学芸員の渡邊浩貴さんによる展示解説があったので聞かせてもらった。
永福寺は、源頼朝が奥州合戦で見た平泉の壮麗な浄土世界を模倣したものと言われている。奥州藤原氏が模倣したのは、白河院・鳥羽院が営んだ鳥羽離宮である。この鳥羽殿→平泉→永福寺というルートで、何が継承され、何が新たに創造されたかという話が面白かった。京都では、建造物に用いる金具の、見えない裏面にも装飾を施しているが、平泉では見えない面には装飾がないという。経済的に余裕がないわけではないので、一種の合理主義なのかな、と思った。また、永福寺跡で出土した経筒が、異様に巨大で異形であるというのも面白かった。あとで展示室で見て納得したが、京都→平泉の仏教文化が、細部まで完全に摂取されてはいないのだな。
永福寺跡で出土した仏像の装身金具片に、愛知・滝山寺の運慶仏とよく似たものがあることは、永福寺の造像に運慶が関与した証左のひとつと考えられている。しかし今日の解説によると、建久2年(1191)「藤原範綱書状」(『和歌真字序集』紙背文書)に「康慶事、委令申候了、下向■(無)異議候歟」という記述が発見されているそうだ。頼朝は康慶(運慶の父)の派遣を求めたが、結果として運慶が来たのではないかという。確かに御家人の北条氏や和田氏が運慶に造像を依頼しているのだから、鎌倉殿・頼朝がワンランク上の康慶を求めることには納得がいく。今日の解説では、上記「藤原範綱書状」らしき画像を投影して見せてくれた(康慶の文字あり)が、最近発表された研究で、今回の展示には間に合わなかった、という趣旨のことをおっしゃっていた。
ネット(googleブックス)で調べたら、雑誌『明月記研究』9号(2004)に五味文彦氏「和歌史と歴史学-和歌序集『扶桑古文集』を素材に-」に、この「藤原範綱書状」の翻刻が載っているのが分かった。『扶桑古文集』は『和歌真字序集』の別書名らしい(東大史料編纂所所蔵)。五味先生、康慶の名前にあまり反応していないのが不思議。この記録を永福寺の造像と結びつけた研究は別にあるのかな。すぐ見つけられるだろうと甘く見ないで、質問しておけばよかった。
また本展では、永福寺式軒瓦の出土の分布に注目する。永福寺式軒瓦は頼朝の縁者・側近のほか、所領において「頼朝とのつながり」を誇示する必要があった御家人の遺跡から見つかっているという。講師は緒豊期の金箔瓦との類似について述べていたが、私は古代の銅鏡の機能と似ているように思っていた。
また、講師の解説では省略されていたが、展示では、音楽を伴う宗教儀礼の整備に、かなり力点が置かれていて興味深かった。鶴岡八幡宮に、こんなに多様な鎌倉時代の舞楽面が伝わっていることを意識していなかったし、千葉・健暦寺や神奈川(箱根)・阿弥陀寺それに日光輪王寺の菩薩行道面、静岡・津毛利神社の『王の舞面』、神奈川・極楽寺の舞楽面など、初めて見るものが多かった。仮面や儀礼の研究をしている研究者が本展を見落とさないといいなあ…。
鶴岡八幡宮の弁才天坐像(裸形着装)が来ていて久しぶりに見たが、この像の特異な横座りの姿勢に関して、図録に詳しい解説がされていた。あとでゆっくり読むことにする。読みでのある図録(でも軽量でコンパクト)でうれしい。この特別展は、学芸員の渡邊さんが5年くらい前から構想していたもので、大河ドラマの便乗企画ではありません、とおっしゃっていたが、ロビーには『鎌倉殿の13人』の主要キャストの等身大パネルが飾られていた。それもまた良し。なお、最近「ぐるっとパス」を利用するようになったので、無料で入れる常設展示をあわせて参観してみた。盛りだくさんで楽しかった。