〇ルース・ベネディクト;阿部大樹訳『レイシズム』(講談社学術文庫) 講談社 2020.4
書店で平積みにされていたので、思わず手に取ってしまった。原著は1942年の出版で、日本語翻訳は何度か出ているが、本書は学術文庫のための新訳である。原題「Race and Racism」に従い、第1部では人種(Race)について解説する。人種とは「遺伝する形質に基づく分類法の一種」である。この定義は明確だ。しかし、人はしばしば生物学的に遺伝するものと、社会的に学習されるものの区別を曖昧にする。たとえば「言語」は後天的な学習の結果である。「アーリア」は言語学上の概念で、遺伝的形質とは何の関係もないが、奇妙な誤用がはびこっている。
学者たちは、皮膚の色、眼の色、鼻の形など、人種を決定的に分ける生物的な基準を打ち立てようと努力してきたが、うまくいっていない。また、ある人種や国籍グループが別のグループより優秀であることを証明しようとした比較研究にも疑義がある。インディアンは完全に自信と根拠をもっているのでない限り軽々しく質問に回答しないように躾けられるとか、ダコタ州の先住民族は「答えを知らないものがその場にいるときには答えをいわない」ことが伝統なのだという。いや面白い。結局、知能テストは学習成果を測るには有効でも、グループ間の先天的な能力差を測ることはできないことが合意となりつつある。
優秀さは遺伝的に受け渡されるものではない。あるグループに大きな発展が生まれるのは、経済的な余裕と、活動の自由と、そしてこの2つを生かすための好機が揃ったときである。ここは赤線を引いておこうかと思った。国民の自由を抑えつけたり、富の再分配を怠って、格差を放置しているようなコミュニティに発展の余地はないのだ。
第2部はレイシズムについて。著者はいったん、内分泌系や代謝機能の「平均値」が他と異なるという意味での人種が存在することを認める。しかしレイシズム、つまりエスニック・グループに劣っているものと優れているものがあるというのは迷信であると断言する。レイシズムは「ぼく」が最優秀民族(ベスト・ピープル)の一員であると主張するための大言壮語でしかない。
以下、著者はこの「選ばれし人間」認識がどのような歴史をたどってきたかを、多少の推測も交えて描き出す。近代のはじめ、ヨーロッパ人は未知の大陸や島々を発見するが、先住民は人間外のものとされていた。なぜなら彼らがキリスト教徒ではなかったからだ。市民革命の時代が訪れると、貴族と平民の対立を人種の違いに求め、貴族の優等性を主張する言説が流行する。19世紀末にはナショナリズムの高まりにより、階級ではなく国家間の優劣に関心が集まった。ヒューストン・チェンバレン『十九世紀の墓標』は、顔の形も髪色も関係なく、絶対の忠誠心をもつ者はすべて「チュートン人」(ドイツ人の祖先)であると説いた。「ドイツ人にふさわしい行動をとる者は、だれでもあれ皆ドイツ人である」という。馬鹿馬鹿しくて笑ってしまった。これは寛容そうに見えて、自分たちの敵に対しても「〇〇に見える行動をとるものは〇〇」という判断を押し付け得るところが怖い。ヒトラーの第三帝国では、時々の政治情勢・利害関係にあわせて、レイシズムが利用された。「レイシズムは政治家の飛び道具である」という言葉も覚えておきたい。
人種に対する迫害を理解するためには「人種」ではなく「迫害」の歴史を研究すべきことを著者は提唱する。少数者に対する迫害は、ずっと繰り返されてきた。かつて主戦場は宗教だったが、現在(本書の執筆当時)は人種となったように見える。しかし大事なのは、人種差別として表面化したものの根本に何があるのかを知ることだ、と著者はいう。社会の不公正や不平等をなくしていくこと、マイノリティの安全・市民権の保障を進めていくこと、それ以外に人種差別をなくす方法はない、という著者の提言に同意する。80年前の著作とは思われず、著者がまさに21世紀の世界を見て書いているのではないかという錯覚を誘うような1冊だった。この新訳で、あらためて日本の全世代に広く読まれてほしい。