〇大津市歴史博物館 壬申の乱1350年記念企画展(第88回企画展)『大友皇子と壬申の乱』(2022年10月8日~11月23日)
週末は1泊2日で関西旅行に行ってきた。このところ、公私ともに突発的なトラブルに見舞われ続けていて、旅行はあきらめようかと思ったが、いやいや、と思い直して出かけた、土曜の朝、京都に到着して、最初は大津の歴博に向かう。この時期、同館の企画展を参観するのは、秋旅行の定番コースなのだが、乗り換えの膳所駅がきれいになっていて驚いた(2017年6月オープンだからもう5年目だが)。
壬申の乱は、天智天皇の後継を、天智の弟・大海人皇子(のちの天武天皇)と天智の息子・大友皇子が争った古代日本最大の内乱である。本年が、672年の壬申の乱から1350年という節目の年であることを記念し、関連地域の考古資料・歴史資料から、壬申の乱の経過を追うとともに、明治時代に大友皇子が弘文天皇とされ、その陵墓が大津の長等の地に決定された経緯や、各地の大友皇子伝承についても紹介する。
私は大学での専攻が万葉集だったので、文学作品の背景として、この時代の歴史は、ひととおり学んだ。大人になってからの読書では、橋本治の『双調 平家物語』が、源平の物語と見せかけて古代から始まり、壬申の乱をかなり詳細に描写していたのが、強く印象に残っている。
はじめに天智天皇が開いた近江大津宮と、その周辺にあった多くの古代寺院について紹介する。大津宮跡(近江大津宮錦織遺跡)へは行ったことがあっただろうか? いかんなあ、一度は行ってみなければ。多数の〇〇廃寺跡へもなるべく行ってみたい。崇福寺跡は、紅葉の頃は風情がありそうだが、徒歩では無理かなあ。
次に壬申の乱の経過に従って、関連遺跡を見ていく。そうそう、伊勢・伊賀・美濃など、戦闘は驚くほど広範囲に広がっているのだ。詳しい記録(脚色もある?)が残っているのは瀬田橋の戦いである。7世紀中頃(壬申の乱当時)の第1橋と、8~9世紀の第2橋の復元模型が出ており、とても興味深かった。全体が木製で、川底に接する格子状の基礎構造には石を置いて重しにする。欄干はないが、橋板は水平でかなり広く、安定している。渡来人が関わっていたというが、中国の橋といえば石橋のイメージである。朝鮮の技術なんだろうか。
敗れた大友皇子は「山前」で自害したと伝えられる。勝者の大海人皇子は、大津はおろか近江にも足を踏み入れていないというのは、のちに平家を滅ぼした頼朝みたいである。そして天武天皇として即位。「天皇」表記のある木簡が展示されていたが、これはレプリカだった。
大友皇子については、法傳寺(大津市)の大友皇子像(大正時代、つるっとしたハンサム顔)と与多王像(僧形神坐像、大友皇子の子である与多王像として伝わる、平安もしくは室町時代)が出ていた。まあ『懐風藻』の漢詩からイメージを膨らますほうがいいのではないか。
その大友皇子、江戸時代には即位説が唱えられ、「大友天皇」「大友帝」と呼ばれるようになり、1870(明治3)年、明治政府は大友帝に「弘文天皇」の諡号をおくることを布達する。このとき、淡路廃帝の淳仁天皇、九条廃帝の仲恭天皇の諡号も決まっているのだな。我々が見ている天皇系図なんて、こうやって後世に整備されたものだということが分かって、たいへん面白かった。
さらに面白いのは、天皇と決まった以上、天皇陵がなければいけないので、1877(明治10)年には、大津市御陵町の亀丘(亀塚)が弘文天皇陵(長等山前陵=ながらのやまさきのみささぎ)に定められる。御陵は不詳、というわけにはいかないのだな。実は亀丘以外にも、複数の御陵候補地があったことや、千葉県君津市では、白山神社古墳を弘文天皇陵と認めてもらおうという運動が、明治30年代まで続けられたというのは初めて知った。何がそこまで千葉県民を駆り立てたのだろう。
常設展コーナーでは、第176回ミニ企画展『大津の天台真盛宗寺院の寺宝』(2022年11月1日~12月4日)も見ることができ、ちょっと得をした気分だった。仏画『赤童子像』(室町時代、小野・上品寺)はイケメンで、真っ青な鬼大師坐像(ドラえもんカラー、江戸時代、大江・西徳寺)も気に入った。