〇松下憲一『中華を生んだ遊牧民:鮮卑拓跋の歴史』(講談社選書メチエ) 講談社 2023.5
このところ、遊牧民に注目した中国史の本(私にも読めるような一般向けの教養書)が次々に出ていて、どれも面白い。本書は鮮卑拓跋部と呼ばれる遊牧集団の歴史を概観する。
鮮卑は1世紀頃、モンゴル高原にした匈奴が衰えたあとに登場する。2世紀頃、檀石塊という英雄が現れ、一大国家を形成するが、やがて各地に部族長が自立する。伝承では、黄帝の孫が「大鮮卑山」に封健され、その子孫が拓跋氏を称したと言われている。北魏の世祖太武帝が使者を派遣して(拓跋氏の)先祖を祀らせたという記事が『魏書』にあり、1980年、内モンゴル自治区の嘎仙洞(かっせんどう)で史書と一致する碑文が見つかっている。しかし、黄帝の子孫という伝承が中華とのつながりを演出するためであるのと同様、鮮卑を強調するのも、遊牧世界の正統性を主張し、慕容に対抗するためではないかと著者は推測する。
3世紀後半、神元帝は、各地の部族を吸収して拓跋部を中心とする部族連合体(拓跋国家)を築き、盛楽に拠点を移した。本書には、著者が2010年に訪問したという盛楽博物館が紹介されており、写真を見て、あっと思った。私も同じ2010年にここを訪ねたことがあるのだ。著者のいう「余談」も懐かしく思い出した。さて、神元帝の死後、拓跋国家は分裂し、華北は雑多な異民族が興亡を繰り返す五胡十六国時代に突入する。拓跋部は「五胡」に数えられているが、北魏の前身である拓跋国家の代国は「十六国」に含まないのが通例であるという。代国は西晋に封健されることで、中華世界の一員となった。
代国は前秦の攻撃を受けて瓦解するが、代王の世孫・拓跋珪は部族長たちに推されて即位し、国号を魏に改める。独孤部、賀蘭部、鉄弗部を従え、慕容部の後燕を平定した拓跋珪は皇帝(道武帝)となった。平城(大同)を首都に定め、宮殿を建設し、儀礼や制度を整備した。当初はさまざまな点で遊牧民的な要素を残していたが(西郊祭天、子貴母死、金人鋳造!?)次第に中華王朝の体面を整えていく。そのターニングポイントである「部族解散」の評価には議論があり、現在は部族の再編と見る説が有力だという。あらためて五胡十六国から北魏の歴史を読んで、この時代は、中華ファンタジー(特に冒険アクション系)の時代設定に取り込まれているように思った。
5世紀前半、北魏太武帝は華北を統一し、五胡十六国時代は終焉する。北魏の胡漢二重体制、廃仏と復仏、大好きな雲崗石窟に関する記述も興味深いがここでは省略する。5世紀後半、文明太后(馮太后だね)の改革を引き継いだ孝文帝は、胡漢二重体制を改め、皇帝を頂点として、胡族と漢族をあわせた社会の構築を目指す。また、平城から洛陽に遷都し、真の中華王朝であることを示そうとした。
本書の第6章「胡漢融合への模索」では、北魏洛陽の繁栄を体験するため、いきなり「転生したら洛陽だった件」が始まって、笑ってしまった。内容は『洛陽伽藍記』という書物に基づいており、ライトノベルと呼ぶには固い文体であるが、嫌いじゃない。だが、むしろ私は、漢化政策に反対して乱を起こした北辺の民の居住地「六鎮」のほうが気にかかる。引用されていたのは「勅勒の歌」。私はこの漢詩、たぶん小学生のときに読んで、以来ずっと好きなのだ。六鎮のひとつ、懐朔鎮(内モンゴル自治区)の風景を歌ったものだという。六鎮の乱のあとには、爾朱栄とか高歓とか侯景とか、会田大輔氏の『南北朝時代』や吉川忠夫『侯景の乱始末記』で見覚えのある名前が次々に登場し、新たな時代に入ったことを感じさせる。
北魏を経て隋唐に至る過程で、遊牧民の胡俗が中華世界に定着し、「漢の中華」とは異なる中華が形成されていく。遣唐使を通じて日本が取り入れた「唐の中華」には、胡床・胡坐(足を垂らして腰掛に座る)・餅(粉食)・ペットの犬など、胡俗に由来するものが多い。中華文明が滅びないのは、胡俗と漢俗が融合を繰り返し、新たな中華を生み出していくためである。うん、この結論はとても好き。単に古いものが生きているだけの歴史よりずっと魅力的だと思う。
もうひとつ、本書でとても印象的だった記述をメモしておく。鮮卑(あるいは突厥、匈奴)とは、支配集団の名前であると同時に、そこに所属する人々全ての連合体の名前である。したがって鮮卑がモンゴル系かトルコ系か、という問いは意味を持たないという。民族というより、むしろ国家に近いことを覚えておこう。