見もの・読みもの日記

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近代青年の原点/当世書生気質(坪内逍遥)

2006-05-30 22:01:28 | 読んだもの(書籍)
○坪内逍遥『当世書生気質』(岩波文庫) 岩波書店 1937.3

 さて、近代文学史のはじまり、はじまり。何の説明も要らない作品である。学生時代、国文学専攻だった私は、これも教養のうちと思って、本書を読んだ。しかし、ほとんど何も印象に残っていない(ちなみに本作と並び称される二葉亭四迷の『浮雲』は、一読以来、今でも私の「好きな小説」である)。

 今回は、およそ20年ぶりの再読だった。読み終えて、なるほど、これは記憶に残らなくても仕方ないな、と思った。ストーリーの中心は、書生(大学生)小町田粲爾と、芸妓・田の次(たのじ)のロマンスである。しかし、両人とも主体的には大した行動もしない。運命のまま、邂逅し、別離し、再会して、めでたく結ばれる。天涯孤独と思われた田の次が「実は」小町田の学友の妹だったり、子どもの取り違えがからんだりするところは、まあ、近代小説というより、浄瑠璃本の筋立てである。

 味わうべきは、明治10年代の東京の「世態風俗」なのだろう。主人公のまわりには、本筋と無関係に、さまざまな学友が入り乱れて登場する。豪傑気取りから、弱気なナンパ学生まで。ある者は主人公より印象的だし、ある者は主人公より出番が多いくらいだ。

 彼らは、明治初年の東京に、突如として現れた集団(マス)――「書生」という風俗を代表しているのである。巻末の解説(宗像和重)は、「近代のまぶしい、しかしきわめて危うい青年像を描き得た点において」本書は近代小説の原点としての意味をもつ、と述べている。確かにそのとおりだ。

 しかし、私はふと思う。ここには、まだ「近代の女性像」は登場しない。悩める近代青年=書生の相手役に配されているのは、芸妓である。文中では「娼妓」と書いて「シンガー」とルビを振る。「芸は売っても体は売らぬ」といわれた芸妓には、自立した女性の一面もあったようだが、本書に登場する田の次や顔鳥は、基本的に、草双紙の住人である(と思える)。紙の上では魅力的だが、面と向かって話が通じるとは思えない。一部の男性には、いつの時代もこの差異が分からないかも知れないが。

 これが漱石の『三四郎』の美彌子やよし子になると、いま、私の隣にいてもおかしくないと感じられる。学生の頃は、乱暴なもので「明治」は全て「明治」だと思っていた。しかし、『当世書生気質』は明治18年刊、『三四郎』は明治41年発表、20余年の時差がある。明治というのは、全てが猛スピードで移り変わった時代であるから、我々の想像以上に、その懸隔は大きいのかもしれない。とすると、この小説の「書生」たちが、長じて広田先生あたりになるのかなあ。

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