○谷沢永一『文豪たちの大喧嘩:鴎外・逍遥・樗牛』(ちくま文庫) 筑摩書房 2012.8
高校時代に聴いた文学史だったか、大学時代の文学史講義だったか、もはや記憶が曖昧なのだが、明治の一時期を「論争の時代」と習った記憶がある。いまネットで確かめてみようとしたら、ぴったりする学説があるわけではないようなので、たまたま私が教えを受けた教師が、そう名付けて整理しただけなのかもしれない。きっと、さぞかし高尚な、文化と学術の進歩に寄与する内容の議論が行われたのだろうと、30年以上信じてきた。それがまあ…というのが本書である。取り上げられている主な論争は以下の通り。
(1)鴎外-芝廼園(しばのその)の水掛論争
(2)鴎外-忍月の醜美論争
(3)鴎外-忍月の舞姫論争
(4)鴎外-逍遥の没理想論争
(5)鴎外-楽堂の傍観機関論争
(6)鴎外-樗牛の情劇論争
(7)鴎外-樗牛のハルトマン論争
(8)鴎外-樗牛の審美綱領論争
(9)樗牛-逍遥の史劇論争
(10)樗牛-逍遥の歴史画論争
(5)は医学・医政をめぐる論争で、楽堂とは雑誌『医事時報』の主筆・山谷徳治郎である。あとの登場人物は、広義には文学者、ただし多くの論争のテーマは、文学というより、審美学もしくは哲学の範疇に属すると思う。
何しろ「論争」というものが、まだ日本の社会に根付いていなかった時代のことである。健全な論争を成立させるための最低限のルールや定型的なかけひきの応酬を、論争の当事者も観衆(読者)もよく分かっていない。いや、当事者たちは、いずれも当時の大知識人なのだから、海外の論争事情を理解していてもよさそうなものだが…そもそも先進文明国の論争事情もこんなものだったのかな。私はよく知らないのだが。
そして、著者が、当時の論争を「面白く」紹介することに努めている所為もあるのだろうが、読み始めて「なんだこれは」と呆気に取られてしまった。これと睨んだ人物(文章)に噛みつき、片言隻句を(誤字の類まで)取り上げて、ねちねちと難癖をつけ、反撃を食らえば、さりげなく論点をずらし、木で鼻をくくったポーズであしらう。舶来の理論を完全無欠・絶対無謬の根拠として崇めたてまつり、それに対する説明責任は決して引き受けない(鴎外におけるハルトマン)。時には、自分の立場(帝国大学教授の看板)やメディア(編集主幹をつとめる同人雑誌等)を利用して、アドバンテージを作り出すことも辞さない。
いまどきのSNS「炎上」の構造と変わらないじゃないか、と思ってしまった。特に嫌らしく、執念深い論争家として描かれているのが文豪・森鴎外である。悪辣すぎて、逆に滑稽で微笑ましいくらいだ。しかし、上記の論争において、文豪・森鴎外につぶされた人々、石橋忍月や高山樗牛に対し、私は二流の文学者・知識人というイメージを抱いてきた。本書を読んで(小説作品の出来はともかく)忍月や樗牛のほうが、主張はずっと真っ当で近代的じゃないか、と再評価することになった。
他人と争うことの嫌いな坪内逍遥は、鴎外の『小説神髄』批判に対し、へりくだって礼を尽くそうとしたため、明治大正期を通じて『神髄』読むに足らず、という不当な低評価に甘んじることになった。『神髄』の真価が見出されたのは、大正末期、評論家・木村毅の努力によるという。論争あなどるべからず。どんな手段を使っても、とりあえず勝てば(負けさえ認めなければ)官軍なのだ。
その逍遥も、後年、樗牛相手にはかなり無茶苦茶な批判記事を書いている。樗牛をニーチェ主義者と決めつけ(このことは逍遥の誤解)、戯作調ではあるが、いやそれだからこそ、相手の身体に針を刺すような酷い攻撃文である。つけ加えれば、さらに後年、逍遥はこの文章を「逍遥選集」に採らなかったという。著者は逍遥について「日本人は外交と喧嘩戦争が下手だとよく言われるが、なるほど逍遥は生粋の日本人である」と評している。
最後にもうひとつ、巻末の〆めの言葉も引用しておこう。「論争史に登場したひとびとは、みんな揃って野暮であった」。全くだね。
高校時代に聴いた文学史だったか、大学時代の文学史講義だったか、もはや記憶が曖昧なのだが、明治の一時期を「論争の時代」と習った記憶がある。いまネットで確かめてみようとしたら、ぴったりする学説があるわけではないようなので、たまたま私が教えを受けた教師が、そう名付けて整理しただけなのかもしれない。きっと、さぞかし高尚な、文化と学術の進歩に寄与する内容の議論が行われたのだろうと、30年以上信じてきた。それがまあ…というのが本書である。取り上げられている主な論争は以下の通り。
(1)鴎外-芝廼園(しばのその)の水掛論争
(2)鴎外-忍月の醜美論争
(3)鴎外-忍月の舞姫論争
(4)鴎外-逍遥の没理想論争
(5)鴎外-楽堂の傍観機関論争
(6)鴎外-樗牛の情劇論争
(7)鴎外-樗牛のハルトマン論争
(8)鴎外-樗牛の審美綱領論争
(9)樗牛-逍遥の史劇論争
(10)樗牛-逍遥の歴史画論争
(5)は医学・医政をめぐる論争で、楽堂とは雑誌『医事時報』の主筆・山谷徳治郎である。あとの登場人物は、広義には文学者、ただし多くの論争のテーマは、文学というより、審美学もしくは哲学の範疇に属すると思う。
何しろ「論争」というものが、まだ日本の社会に根付いていなかった時代のことである。健全な論争を成立させるための最低限のルールや定型的なかけひきの応酬を、論争の当事者も観衆(読者)もよく分かっていない。いや、当事者たちは、いずれも当時の大知識人なのだから、海外の論争事情を理解していてもよさそうなものだが…そもそも先進文明国の論争事情もこんなものだったのかな。私はよく知らないのだが。
そして、著者が、当時の論争を「面白く」紹介することに努めている所為もあるのだろうが、読み始めて「なんだこれは」と呆気に取られてしまった。これと睨んだ人物(文章)に噛みつき、片言隻句を(誤字の類まで)取り上げて、ねちねちと難癖をつけ、反撃を食らえば、さりげなく論点をずらし、木で鼻をくくったポーズであしらう。舶来の理論を完全無欠・絶対無謬の根拠として崇めたてまつり、それに対する説明責任は決して引き受けない(鴎外におけるハルトマン)。時には、自分の立場(帝国大学教授の看板)やメディア(編集主幹をつとめる同人雑誌等)を利用して、アドバンテージを作り出すことも辞さない。
いまどきのSNS「炎上」の構造と変わらないじゃないか、と思ってしまった。特に嫌らしく、執念深い論争家として描かれているのが文豪・森鴎外である。悪辣すぎて、逆に滑稽で微笑ましいくらいだ。しかし、上記の論争において、文豪・森鴎外につぶされた人々、石橋忍月や高山樗牛に対し、私は二流の文学者・知識人というイメージを抱いてきた。本書を読んで(小説作品の出来はともかく)忍月や樗牛のほうが、主張はずっと真っ当で近代的じゃないか、と再評価することになった。
他人と争うことの嫌いな坪内逍遥は、鴎外の『小説神髄』批判に対し、へりくだって礼を尽くそうとしたため、明治大正期を通じて『神髄』読むに足らず、という不当な低評価に甘んじることになった。『神髄』の真価が見出されたのは、大正末期、評論家・木村毅の努力によるという。論争あなどるべからず。どんな手段を使っても、とりあえず勝てば(負けさえ認めなければ)官軍なのだ。
その逍遥も、後年、樗牛相手にはかなり無茶苦茶な批判記事を書いている。樗牛をニーチェ主義者と決めつけ(このことは逍遥の誤解)、戯作調ではあるが、いやそれだからこそ、相手の身体に針を刺すような酷い攻撃文である。つけ加えれば、さらに後年、逍遥はこの文章を「逍遥選集」に採らなかったという。著者は逍遥について「日本人は外交と喧嘩戦争が下手だとよく言われるが、なるほど逍遥は生粋の日本人である」と評している。
最後にもうひとつ、巻末の〆めの言葉も引用しておこう。「論争史に登場したひとびとは、みんな揃って野暮であった」。全くだね。