2022年11月20日に90歳の母が永眠した。父の例に倣って、その前後のことを書き留めておく。
父と母は2017年5月から武蔵境にある老人ホームで暮らしていたが、2022年2月に父が息を引き取った。以後、私は毎週末、1人暮らしになった母を見舞うようにしたが、新型コロナの影響で、面会室で15分くらいしか話すことができなかった。居室に入れるようになったのは6月半ば頃だったと思う。
母は噛む力の衰えが目立ち、誤嚥性肺炎で発熱を繰り返すようになった。施設から、6月には刻み食、8月半ばには流動食に切り替える提案を受け、了承した。8/19(水)には肺炎治療のため武蔵野徳州会病院に入院した。この2年くらい、体調は低め安定で入院はなかったので、久しぶりの入院だった。
9/2(金)退院の日、私は仕事を休み、施設で母を出迎えた。すでに発話が曖昧になっていたが、「病院の食事はどうだった?」と聞くと嫌がる表情をしたり、「新しいブラウスを買ってあげようか?何色がいいかな?ピンク?」と聞くとうなずいたり、コミュニケーションは取れた。次の週末は、施設のスタッフにコロナ陽性者が発生したため、面会受入れが中止になってしまった。私は新しい下着と差入れの果物ゼリー(いちじく味など)を施設に預けてきた。
9/13(火)深夜、母が再び肺炎のため世田谷北部病院へ入院したことを、私は翌朝、弟からのメールを見て気づいた。9/17(土)には弟と二人で武蔵境の施設を訪ね、掛かりつけ医の話を聞いて、今後のことを考える必要を実感した。とはいえ、この時期、入院先の病院からは「経過良好」「まもなく退院可能」という報告が来ていたので、まだ先の話だと思っていた。
9/24(土)武蔵境の施設の相談員の方から、退院にあわせた転居を勧められる。はじめは戸惑ったが、確かに今後は24時間看護師のいる施設に移ったほうが安全かもしれない。10/2(日)に同系列の介護施設を見学し、弟の家に近い杉並区久我山の施設に転居を決めて、退院を待つことにした。
ところが母の容態が悪化し、病院から「胃ろう」または「CVポート」の選択をしないと、介護施設での受入れは難しいだろうという言ってきた。10/15(土)武蔵境の施設で5年間、母を看てきた看護師さんに「どうも話がおかしい」と言ってもらい、「まずは病院を出て家族と会えるようにすることが大事なんじゃないか」という正しい助言をもらった。そこで弟から病院の医師に、家族は延命を望んでいないこと、看取りのために退院させてほしいことを伝えた。
私は、原則禁止の面会を病院に頼み込んで、10/21(金)に15分だけ面会させてもらった。病室のベッドに横たわった母は、もはや目を開いていても私が見えているのか分からなかった。それでも帰り際に「また会いたいね」と髪を撫ぜると、うなずき、微笑んだように思った。
その後、しばらく病院から音沙汰がなかったのは、渉外担当のソーシャルワーカーが新型コロナに罹患していたためと後に判明する。10/28(金)に久我山の施設のホーム長から、退院のためのアセスメントが11/4(金)に決まったという連絡をもらう。ところが11/5(土)になっても何も連絡がないので、武蔵境の相談員や久我山のホーム長に電話をしてみると、また母の容体悪化でアセスメントが延期になっていたことが判明。あまりに無責任な連絡体制に私はブチ切れていた。
退院アセスメントは11/15(火)に再設定された。まさにその日の11:00過ぎ、私の携帯に弟から電話がかかってきた。オンライン会議中で出られなかったので、あとで留守電を聞くと、母の心拍数が弱っているので面会に来てもよいという連絡が病院からあったという。慌てて午後休を取って病院に駆けつけ、目を閉じて呼吸しているだけの母に15分ほど面会させてもらった。この状態では退院できないのではないかと思ったが、アセスメントはあっさり済んで、11/18(金)に退院と久我山の施設への転居が決まった。
この経験を通じて学んだのは、病院は「肺炎」で入院した患者について、その症状の快癒には責任を持つが、それ以外の健康状態やQOL(生活の質)には関心を持たないらしいということだ。外部との交渉を断たれた状態での2ヵ月にわたる入院生活は、母の体力も生きる楽しみも奪ってしまったように思う。患者家族との連絡・交渉を受け持つソーシャルワーカーが、どう見ても経験不足の若い男子だったことも、運命だが残念でならない(適切な指導者がついてないのであれば、彼も可哀想だ)。ただ、病室で出会った看護スタッフの皆さんは、明るく親切で、ハードな仕事をテキパキこなしていたことは付け加えておく。
※葬儀私記(その2-2)に続く。