見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

関西・秋の展覧会(4)おまけ:東大寺散歩

2010-10-17 00:45:49 | なごみ写真帖
展覧会めぐりの合い間に、朝の東大寺を散歩した(10/10)。

立派な角の雄ジカ。しかし、10/10-11の2日間、恒例の「鹿の角切り」行事が行われ、今年は32頭の角が切られたというから、これが最後の雄姿だったかもしれない。



めずらしく人の姿のない裏参道。一瞬だったけど。



二月堂参籠所食堂の排水溝に掛け渡されていた小さな札。東大寺の境内にもアライグマが出るんですね。



二月堂の納経所に掛っていた木札。



昨年、西国三十三所の満願を達成したが、東大寺二月堂が「番外札所」だという認識は全くなかった。「西国三十三所巡礼の旅」公式サイトにも掲載されていないし…。ご朱印を書いていただいた方にお尋ねしてみたら、「昔は番外に数えられていたんですよ」とおっしゃって、小さな紙片をいただいた。それによると「西国三十三ヶ所観音霊場巡拝 番外」は

・華厳宗 東大寺二月堂
・真言宗 高野山
・単立 善光寺
・和宗 四天王寺
・真言宗 豊山 法起院
・天台宗 華頂山 元慶寺
・真言宗 東光山 花山院

へえー。長野の善光寺まで入っていたとは初耳。でも西国なのか?信濃は。

三月堂(法華堂)にも寄った。最後に来たのはいつだったろう。実は、この度の須弥壇解体修理のニュースを私が知ったのは、拝観停止が始まってからだった。8/1から拝観は再開。ただし、右から、梵天→日光菩薩→不動明王→弁財天→地蔵菩薩→月光菩薩→帝釈天の順で一列に並んだ諸像をガラス戸越しに拝観するのみ。お堂の外の案内板には「内陣には入れませんが、礼堂からご尊顔を間近に拝することができます」とある。まあその通りだ。

現状および今後の予定は、東大寺公式サイトにも掲載されているが、

・不空羂索観音像、四天王像、吉祥天像は順次修復?
・金剛力士像ニ体…特別展終了後も引き続き、奈良博で公開中。
・日光、月光、弁財天、不動、梵天、帝釈天…三月堂で公開中。
・日光、月光、吉祥天、弁財天…平成23(2011)年10月以降、新設の「東大寺ミュージアム」で公開。※三月堂は不動、梵天、帝釈天だけになる?
・不空羂索観音像…平成24(2012)年12月以降、三月堂に復帰公開。
・四天王像…修復後の去就未定。お寺は「一体でも戻ってくれば…」と願っている模様。

長い目でみれば、たとえば不空羂索観音と日光、月光は、もともと一具としてつくられたわけではないのだから、分離を躊躇する理由はないのかもしれない。しかし、仏像に興味を持ってこのかた、30年余り、ずっと一体の風景として眺めてきた三月堂の諸像が、こんな簡単にバラバラになってしまう日に立ち会おうとは、「諸行無常、会者定離」が身に沁みて、ちょっと泣ける。和辻哲郎の『古寺巡礼』も知的に構成しなおさなければ、追体験できなくなるんだなあ。
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描かれたイタリア/グランドツアー(岡田温司)

2010-10-16 00:34:31 | 読んだもの(書籍)
○岡田温司『グランドツアー:18世紀イタリアへの旅』(岩波新書) 岩波書店 2010.9

 グランドツアーとは、イギリスの支配階級や貴族の子弟たちが教育の最後の仕上げとして体験する、数ヵ月から2年程度のイタリア旅行のこと。17世紀末に始まり、18世紀後半にピークに達した、と本書は説明している。ただし、Wikiによれば、目的地は必ずしもイタリアに限らなかったらしい。一方、本書は、18世紀、ヨーロッパ各国の旅行者を吸い寄せた「イタリア」に着眼して書かれており、登場する旅行者は「イギリス上流階級の子弟」に限定されていない。つまり、本書の内容とタイトルには、いくぶんの誤差があることを注意しておきたい。

 しかし、そんな些細なことを気にしなければ、十分に面白い本だ。本書は「人」「自然」「遺跡」「美術」の4つの章から成る。「人」の章は、「先進国」イギリスからの旅行者が、イタリアの過去の栄光と現在の体たらく(貧困、荒廃)に優越意識を感じていたこと、それゆえ、古代ローマあるいはルネサンスという偉大な過去を受け継ぐ役目は自分たち(イギリス人)にこそある、という自負心から「何のためらいもなくイタリアから多大な考古学的遺産を自国へ持ち帰ることができた」のではないか、と語る。なんとなく耳の痛い話でもある。そして、恐ろしい山賊を配した風景画や、猥雑で滑稽な庶民を描いた風俗画が流布することで、旅行者たちは、イタリアに旅立つ前から、ある種の色眼鏡(オリエンタリズム)を装着していたという。そうかー。”写実的”な手法で描かれた西洋の風景画、風俗画も、全て真実と受けとめてはいけないんだな、と認識を新たにする。

 「自然」の章では、18世紀に特徴的な美的感受性が「ピクチャレスク」と「崇高(サブプライム)」であることが語られる。ところが、18世紀末になると、全く新しい風景へのまなざしがきざし始める。例に挙げられているのは、ローマを描いたフランスの画家ヴァランシエンヌと、ナポリを愛したイギリスの画家トーマス・ジョーンズ。神話や伝説のかけらもない、乾いた空気とモノの質感をごろりと投げ出したような、驚くほど「新しい」風景画である。

 「遺跡」の章は、ポンペイの発掘(1748年開始)と発掘品カタログ(1757年刊行)が全ヨーロッパに与えた影響について。このカタログから、その後の西洋の美術や工芸品、家具や装身具のデザイン・モチーフとなるものが数多く生まれたという。われわれが「伝統」と思っているものが、意外と「リバイバル」なのは、西洋も同じなのか。沸騰する古代ブームに対して、知識人は冷やかだったそうだ。また、「古代とは何か」(素朴で単純明快な古代vs異種混淆、奇想の古代)についても論争が起こる。「彼らが提示する古代像は、実際に古代がいかなるものであったかということよりも、いかなる古代であってほしいのかという期待や欲望を映し出している」という著者の指摘が面白い。私は、どうしてもここに日本人の同様な傾向を重ねて読んでしまう。

 そして「美術」の章は、旅行者が旅の記念にイタリアで描かせた肖像画、お土産に最適だったと思われる、名所旧跡画について。これもびっくりした。実際にはかなり離れたところにあって、同時に見えることがありえない名所旧跡を1枚の画面に組み合わせるのは「おなじみの技法」だったそうだ。なんだー。日本の名所図屏風とおんなじじゃない。金色の雲とかで誤魔化していないので、イタリアの風景をよく知らないと、これが実景なのかと思ってしまう。さすがに、ロンドンのセント・ポール大聖堂とヴェネツィアの運河を1画面に描いた奇想(カプリッチョ)には違和感を感じたけれど。

 なお、イタリア中部に「ナルニ(ナルニア)」という町があり、C.S.ルイスの『ナルニア国物語』の舞台とされていることを初めて知った(Wikiに簡単な記述あり。でも地名を拝借しただけなのかあ)。近くには、マルモレの滝という名勝もあるそうだ。私は、むかし、イタリアからスイスに抜ける旅行をしたとき、深い緑に彩られたアルプス山脈を見て、この風景こそはナルニアだ!と感じたのだが…。あれはまさに「崇高(サブプライム)」な風景だったなあ。
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関西・秋の展覧会(3):京博、大津市歴史博物館、名古屋城

2010-10-14 00:02:40 | 行ったもの(美術館・見仏)
京都国立博物館 特別展覧会『高僧と袈裟-ころもを伝え こころを繋ぐ-』(2010年10月9日~11月23日)

 3連休旅行、2日目の続きから。本展は「袈裟を通して見えてくる日本の仏教と染織の歴史を辿る、初めての試み」。この企画を知ったときは、あまりにマニアックで、言葉を失ってしまった。誰が見に行くんだ、こんなもの、と思ったが、けっこう観客がいた。ひとつは、明らかにお坊さん。それから、染色・織物関係者。あと、袈裟の金襴は「名物裂(めいぶつぎれ)」として、掛軸の表具や茶入の包み(仕覆)に用いられるため、茶の湯関係者の関心も引いているのだ。さすが京都である。

 唐招提寺からは、鑑真料(鑑真が使用した)と伝える袈裟が出品されていた。透かし彫りの内蓋越しに畳まれた布を確認することはできるが、施錠されているため「詳細は調査できない」のだそうだ。東福寺には「伝法衣箪笥」というのがあることを初めて知った。兵庫・興長寺に伝わる、ぼろぼろの「阿弥衣」(時宗の僧侶が着る粗末な麻衣)は異彩を放っていた。「遊行元祖御衣壱枚」と墨書した紙片が裾に付けられていた。愛らしさでは、南禅寺初代・無関普門相伝の「刺繍九条袈裟」。

 古い図像では袈裟の釣紐を結んでいるのに対して、鎌倉仏教あたりから「環」を用いていること、金襴袈裟は日明貿易以降に流行したことなど、歴史的な知識も少し仕入れる。夕方、博物館のカフェで若いお坊さんのグループがくつろいでいたのが、なんだか微笑ましかった。

大津市歴史博物館 開館20周年記念企画展『大津 国宝への旅』(2010年10月9日~11月23日)

 最終日は大津へ。本展は国宝35点、重文55点など大津ゆかりの名宝約150点を展示する(書画は前後期でほぼ総入れ替え)。私は滋賀県の文化財を、ずいぶんヒイキにしているつもりだが、大津市だけでこんな展覧会ができてしまうのはすごい。会場の冒頭を飾る、華開寺の木造阿弥陀如来坐像はいいなあ。平安仏らしい丸顔。典雅で、でしゃばらず、エラぶらない感じが、私の思う近江らしさにぴったりくる。最澄や円珍ゆかりの文書もどっさり出ていて嬉しかった。おお、最澄の「國宝」の文字がある!とかね。

 仏像では、盛安寺の十一面観音菩薩立像が一押し。唐風のぽってりした丸顔に浮かぶ、厳しい表情。猪首で逞しい上半身に対して、下半身はすらりと腰高で直線的。実は旅行前に「秘仏の扉」というサイトで「5、6、10月の土曜日公開」という情報を見ていたので、盛安寺に行こうかどうしようか、迷っていたのだ。ここで拝観できてよかった。園城寺の愛染明王坐像は、六臂の持物が全て失われているせいで、細い腕の簡素な美しさが引き立っている。怒髪と一体化した獅子冠もかわいい。

 そして、とうとう、園城寺(三井寺)の秘仏『絹本著色不動明王』(黄不動)に初対面(2009年、サントリー美術館では見逃している)。図像では旧知だったはずなのに、ものすごい衝撃。秘仏には、見たままを語っておきたい、書き残しておきたいと思わせるものもあるが、この黄不動に関しては、語ってはいけないものを見た、という感じがする。本展には、このほか、冷泉為恭写など模本4点も同時展示(前期のみ)。黄不動の正面には、母を慕う仔犬のように、円珍・智証大師の坐像が据えられていた。

名古屋城 開府400年記念特別展『武家と玄関 虎の美術』(2010年9月25日~11月7日)

 新幹線で京都→名古屋へ移動。名古屋は初日に全部見てしまうつもりだったのだが、時間が足りなかったので仕方ない。しかも、名古屋に着いて、ポスターを見るまで、え?蘆雪が来てるの? うわ、応挙も!?ということを知らなかったのだ。初日の土砂降りとは打ってかわった好天気、人込みに揉まれながら、初めての名古屋城天守閣へ。本展は2階の展示室で行われている。

 総点数45件112点は多くはないが、面白かった。蘆雪の無量寺の”飛び出す”虎。応挙の金刀比羅宮表書院のもふもふした白虎。海北友松の建仁寺の雲龍図襖絵もすごい迫力。桃山寺院の禅寺や城郭では、諸獣は仏法や領主を守るものであった、という説明になるほどねえと思う。薄暗がりの中で、巨大な龍や虎が睨みをきかせる部屋に招き入れられた賓客は、どんな気持ちだったろうかと想像する。やましい心があったら、冷や汗をかくだろうな。でも、近頃のマンガやドラマにあるように、龍や虎の前に領主が座っちゃいけないんだな、とも思った。

 豊干禅師と寒山拾得が虎にもたれて仲良く眠る様を描いた黙庵筆『四睡図』(前田育徳会)は初見。むかし、橋本治の『ひらがな日本美術史』で「意外とメルヘンなもの」というタイトルで取り上げられていて、へ~え、水墨画って意外と可愛いんだなあと思った記念の作品。一目見て、いいな!と思った『鍾馗虎図』(鍾馗が虎を押さえつけている)は雪村筆だった。

 かくて、3日間の収穫は展覧会7件。図録を5冊購入して東京へ戻る。
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関西・秋の展覧会(2):奈良県立美術館、大和文華館

2010-10-13 00:21:14 | 行ったもの(美術館・見仏)
奈良県立美術館 平城遷都1300年祭特別展『花鳥画-中国・韓国と日本-』(2010年9月28日~11月14日)

 2日目は奈良からスタート。朝、久しぶりに平時の(特別な行事のない)東大寺を散歩したが、そのことは別稿としよう。本展は「古くから日本へ感銘を与えてきた中国・韓国の花鳥画の美に触れていただくとともに、それらを摂取し展開させながら日本が生み出してきた数々の名品を展示」というホームページの前半の記述だけ頭に入れて見に行ったら、いきなり中国の唐代壁画の断片、三彩、銀盤などが並んでいてびっくりした。実は、展覧会趣旨の後半に「併せて、中国から国外初出品となる唐時代の壁画断片と花鳥文工芸、韓国から奈良時代の工芸との関連が指摘される『花鳥文骨装飾』(雁鴨池出土)が出品」とあるのだが、ちょっと前半(第1部)と後半(第2部)の関係が分かりにくいと思う。

 第1部の目玉は、陝西省考古研究院所蔵、韋浩墓出土の『鳥語花香仕女図』。日本国内で、唐代の壁画が見られるチャンスはめったにないので、食いつくように見入る。しかし、その題名にもかかわらず、鳥と花の姿はすごく薄色なので、展覧会のテーマとのかかわりは分かりにくい。唐代のぼってりした花卉文の鏡、好きだなあ。それから、藤田美術館蔵の『扇面法華経冊子断簡』が出ていたが、柏の低木に群れ集う鷽(うそ)を描く。喉元の赤い、丸々した小鳥。風俗画ばかりかと思っていたら、こんな図柄もあるのか、と新鮮だった。

 第2部は「宋・元・明・高麗・朝鮮王朝の花鳥画と日本での受容・展開」を紹介する。ただし、「日本での受容・展開」の好例、雪舟、宗達、若冲の作品は後期(10/26~11/14)展示。でも、分かっている人なら、あ、この『蓮池白鷺図』からあの『蓮池図』が生まれるのか、とか、この『架鷹図』からあの『鸚鵡図』かあ…という具合で、だいたい展示の意図は読み取れると思う。

 久しぶりに見て嬉しかったのは、狩野元信の『四季花鳥図』。水墨の風景に著彩の花鳥を配した不思議な作品。あれー8軸だったのかあ、と思って、以前の記録を探したら、2008年11月に見たときも全く同じ感想を書きつけていて、自分の進歩の無さに苦笑してしまった。

大和文華館 開館50周年記念名品展Ⅰ『大和文華館の日本絵画』(2010年10月2日~12月26日)

 2009年秋から休館していた同館が、リニューアルを終えて再オープンした。このところ、東京地区ではサントリーや根津など、本当に「面目一新」のリニューアルが相次いでいたのに比べると、あまり変わってなくてホッとした。リニューアル並びに開館50周年を記念する第一回展は、日本の絵画・書蹟の名品展。作品数は73件だが、間然とするところがない。『寝覚物語絵巻』に『小大君』に桃山の『婦人像』に…と、どれも一度は見たことがあるものばかりだが、全然がっかりしない。何度見ても新鮮で、ますます好きになる作品ばかりなのだ。

 『婦女遊楽図屏風』(松浦屏風)は、2006年4月以来、久々の対面。描かれた18人の女性たちの、堂々とした美しさにため息が出る。さまざまな髪型。自由闊達なファッションセンス。眉は剃っていたりいなかったり。あまり年配に見えない女性もお歯黒を付けていると思ったら、遊女、芸妓はお歯黒をした、という記事を見つけ、そうだったのか、と思った。初公開の新収品、岡田為恭筆『春秋鷹狩茸狩図屏風』は、金地の山に藍色の水のパノラマ風景が美しい。作者は”冷泉”為恭と同一人だよねえ、と思いながら、どこにもその説明がないので、最後まで自信が持てなかった。
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関西・秋の展覧会(1):徳川美術館、名古屋市博物館

2010-10-12 01:01:01 | 行ったもの(美術館・見仏)
徳川美術館蓬左文庫 名古屋開府400年、徳川美術館・蓬左文庫開館75周年記念 秋季特別展『尾張徳川家の名宝-里帰りの名品を含めて-』(2010年10月2日~11月7日)

 この秋、注目は開府400年の名古屋である。遷都1300年の奈良なんて目じゃない(悪いけど)。徳川美術館と蓬左文庫の名品展は、質・量とも圧倒的だった。東博や京博みたいな巨大な展示ホールがあるわけではないけど、うねうねした回廊を進んでいくと、武具あり書画あり工芸あり典籍あり、美術&歴史ファンにとっては、1日滞留しても飽きないワンダーランドである。以下、あえて厳選して、感想を語る。

 第1室に、いきなり家康の『三方ヶ原戦役画像』(敗戦を忘れないために描かせた顰像=しかみ像)があって心が躍る、。巨大な馬印(今回は網代三蓋笠馬標)や異様に銃身の長い火縄銃(弾道を安定させるためか)も興味深いが、注目は、家康の遺品目録である『駿府御分物御道具帳』。綴じ部分を別紙で糊づけし、割印まで施してあるのは、1枚抜き取るというような不心得を防ぐためと思われ、いかに貴重な文書だったかが分かる。

 茶道具の展示では、玉澗筆『遠浦帰帆図』、伝・牧谿筆『洞庭秋月図』がさりげなく並べて取り合わせてあった。前者のほうが濃い墨で、塔や網干や舟の上の人の姿もそれと分かる。後者は全てがぼんやり溶け出していくような、静かなメルヘンタッチ。天に月を描かず、湖面に映る(湖底に沈む真珠のような)月だけが描かれている。思いつきだけど、中原中也とか三好達治の詩が似合いそう…。

 蓬左文庫の典籍で、いちばん興奮したのは『続日本紀』。10巻×4段の書箪笥ごとお蔵出し。巻11-40は現存最古の写本(金沢文庫旧蔵)。巻1-10は家康が五山の僧に書写させて補ったという。いや、よくぞ今日に伝えてくれました。古代史ファンとして感謝に堪えない。この展覧会を見ると、政治・軍事は武家、文化を担ったのは皇室という俗流の歴史理解がどんなに薄っぺらいかがよく分かる。尾張徳川家の始祖・義直の蔵書印は、端的に「御本」の二文字なのね。覚えた。「里帰り」の『元永本古今和歌集』はきれいだったなあ。だいたい展示では派手な料紙を見せたがり、写真図版にするとさらに重い印象になるのだが、今回の展示箇所はあっさりして品があってよかった。忠岑の「すみよしと海人は云とも長居すな」(917)という和歌が載っていた。

 絵画では、伝・岩佐又兵衛筆『豊国祭礼図屏風』をついに見ることができた! 見たかったんだ~これ。蜂須賀家の菩提寺である高野山の光明院(おー宿坊にもなっている)伝来で、昭和8年に尾張徳川家(財団)が購入したのか。群衆の熱狂がすさまじい迫力で描かれているが、それ以上に、右隻の中央のひろびろした舞台で演じられている「翁」舞の静かな迫力に身震いする。よく教科書に載っている『歌舞伎図巻』も初見かもしれない。舞台上の出雲の阿国よりも、観客の中に、南蛮人や朝鮮人(いや明国人じゃないか?)らしい姿を見つけたことが新鮮な驚きだった。

 今回、第7-8展示室では「里帰りの名品」と題して、尾張徳川家の旧蔵品を展示。解説には、その品が尾張徳川家を離れた理由が書かれていて、「将軍に献上」「皇室に献上」「分家に分譲」などのほか、「売り立て」「婚礼道具」さらには「旧職員の退職に際して贈与された」というのもあり、いろいろ想像を逞しくしてしまった。

名古屋市博物館 名古屋開府400年記念特別展『変革のとき 桃山』(2010年9月25日~11月7日)

 徳川美術館で予想外に時間を取ってしまったが、もう1箇所寄ることにして、土砂降りの中、道を急ぐ。本展は、激動の時代「桃山」において、城郭御殿、漆器や茶陶が遂げた変貌に着目する展覧会。チラシを見たとき、すごく面白そうだと思って期待したのだが、いまいち消化不良だった。桃山文化って、豪華・壮大・現世的というのが教科書的なキーワードらしいのだが、私は、この整理にどうも違和感がある。むしろ『太閤花見図屏風』みたいな、死の匂いのする静けさに桃山らしさを感じている。

 まあでも博物館でこういう企画があると、出光の『大阪城合戦図屏風』とか、三井の『聚楽第図屏風』とか、美術館ではなかなか出番のない作品を見ることができて嬉しい。輸出用の漆器(蒔絵螺鈿)、特に聖龕(せいがん)は、よくこれだけ集めたなあと感心した。茶碗は、長次郎、光悦の名品を贅沢に揃えているにもかかわらず、解説が舌足らず。何を言いたいのかよく分からなかった。
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ユーラシアを駆ける/モンゴル帝国と長いその後(杉山正明)

2010-10-11 20:39:17 | 読んだもの(書籍)
○杉山正明『モンゴル帝国と長いその後』(興亡の世界史09) 講談社 2008.12

 この夏、中国の内モンゴル自治区を旅行してきた。ジンギスカンの陵墓を訪ね、内蒙古博物院でモンゴルの歴史に関する出土文物や民俗資料を多数見た。そこで、この機会に少しモンゴル史を学ぼうと思って本書を手に取った。

 タイトルから想像して、まず13世紀初頭のモンゴル帝国建国の物語があって、引き続き「長いその後」が描かれるのだろうと思っていた。ところが、本書の著述は、はるか古代、前6世紀、黒海の北側に出現した、ギリシア語でスキタイと呼ばれる遊牧複合連合体から始まる。次いで顕著な遊牧国家は、前200年前後の匈奴。以後、ユーラシアの東西で大小さまざまな遊牧国家が興亡し、その伝統の上に、ようやくモンゴル帝国が出現する(なお、著者はモンゴルの記録が一度も「帝国」を名乗っていないことに注意を促している)。

 ひそかに期待していたチンギス・カンの神話的な伝記物語は、ほとんど記述されない。その代わり、私が全く知らなかった歴史叙述、第二代オゴデイの企てたバトゥの西征(ロシア・東欧遠征)、第四代モンケ政権下のフレグの西征(中東侵攻、アッバース朝を滅ぼし、バグダードを開城する)などは、息を呑むような面白さだった。あと、金の中都(のち元の大都→北京)に生まれたオングト族、ネストリウス派キリスト教徒のサウマーが、ローマ、パリに至る大旅行の物語も。

 かと思えば、突如場面は中世ヨーロッパに転じ、フランス王(聖王)ルイ九世が十字軍を率いて地中海に乗り出す。何故?モンゴルと何の関係が?と思っていると、キプロス島に滞在中のルイ九世のもとに、モンゴルからの使節が訪ねてくる。その後の複雑な情勢の変化と思惑のすれ違いはさておき、13世紀当時、モンゴル皇帝とフランス王が互いの存在を認識し、書簡を交わし合っていたというのは、私には驚きだった。さらに、モンゴル皇帝の「国書」がヨーロッパの公文書館に残っているということも!

 つくづくモンゴル史を専門にするのは大変だろうなあ。モンゴル語文献はもとより、東は日本・韓国・中国など漢字文化圏の資料から、根本史料の『集史』(モンゴル帝国の正史)はペルシア語でつづられ、中東・ヨーロッパの古文書まで渉猟しなければならないのだから。しかし、それは当然のことだ。モンゴル帝国こそは人類史上はじめての「世界帝国」なのだから。14世紀初頭、モンゴル時代のアフロ・ユーラシアは海陸ともに「空前の交流・交易の波」に包まれ、現実的な世界認識が東西にもたらされた。この重要な「世界史へのステップ」を無視して、「大発見の時代」や「大航海時代」を大げさに言いつのる従来の常識に対して、著者は厳しい苦言を呈している。

 同様のことは、ヨーロッパにおけるモンゴル兵の悪鬼の如きイメージについても言える。著者によれば、モンゴル軍は常に周到な調略工作を行い、戦わずして敵が崩れるように仕向けた。今に伝わる大量虐殺や恐怖の無敵軍団のイメージは、「モンゴル自身が演出し、あおりたてた戦略」であった。けれども、たとえばバトゥ軍の侵攻を受けたロシアの被害は、ロシア人史家によって過大に成長してきた。モンゴルが悪逆非道であればこそ、その災厄からロシアを救い出したツァーリの権力は正当化される。「ロシアにとってモンゴルは愛国の炎を燃えさせる便利な手立てのひとつなのである」って、どこかでも聞いたような話である。

 時間軸では紀元前からモンゴル帝国、そしてモンゴル王家の「婿どの」たちの16~17世紀まで、空間軸では極東の日本(終章にちょっとだけ登場)から西ヨーロッパまでを自在に駆け抜ける本書は、「ユーラシア史」という、日本人があまり体験したことのない歴史を垣間見せてくれる。それは、普段われわれが「歴史」と呼んでいるものが、どれだけ「断片」化した歴史であるか、反省を迫るものでもある。
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ドラマ『蒼穹の昴』日本語吹き替え版、始まる

2010-10-07 21:46:30 | 見たもの(Webサイト・TV)
NHKドラマ『蒼穹の昴』(2010年9月26日~、全25回)

 『蒼穹の昴』日本語吹き替え版の放送が、NHK総合テレビで始まった。2009年の春、日中共同制作を伝えるニュースにアクセスして以来、待ちに待っていた放送である。既に中国では、今年3月14日~27日に北京電視台で放映され(※中国の連続ドラマは集中的に毎日放送することが多い)、日本では1~7月にNHK-BShiで字幕版が放映された。原作が根強い人気を誇るわりには、残念ながら、さほど注目を集めなかったように思う。しかも日本語吹き替え版の放送が、よりによって尖閣諸島問題で、日中国民感情のこじれたこの時期。あ~あ。商業的な失敗は目に見えている。

 まあ、いいわ。年来の中国ドラマファンとしては、日本のテレビで本格的な中国古装劇(時代劇)が見られるという、かつてない(今後もしばらく無いであろう)機会を、半年間、存分に楽しむことにしたいと思う。デジタル画面で見ても、衣装やセットの美しさは半端でない。

 NHKの公式サイトは、このドラマについて「台湾出身の人気女性脚本家・楊海薇(Yang Hai wei)がシナリオを執筆しています。浅田次郎の名作をもとに、近年の歴史研究を踏まえ、これまでの清朝末期の宮廷イメージを打ち破る人間ドラマとして描いています」という説明を載せている。原作・浅田次郎よりも、脚本家・楊海薇の名前が先に来ているのは、原作とは異なる一個の「作品」として見てほしい、というメッセージだと思う。大陸中国ではなくて、台湾の脚本家を起用しているというのも面白いと思った。

 ネットで評判を読んでいたら、吹き替え版は、BS字幕版(中国語版)より省略が多いという声があった。気になったので探してみたら、捜狐.comで全話視聴ができるのを発見。もちろん中国語版(中国語字幕)。快適と言えるほどの環境ではないが、なんとか見られる。そして、数分ではあるが、中国語版の本編のほうが長いことが分かった。カットされているのは、いかにも「中国古装劇」らしい、素朴な笑いを誘う楽しい場面で、結果的に、吹き替え版のほうが、真面目で陰鬱なドラマの印象になってしまっているのは惜しい。あと、第2話にして、既に日本語版と中国語版では、物語の進行に少しズレが生じている。中国語版は全28回なんだな。ということは、全25回の吹き替え版とは、後半、物語の進行速度がかなり変わっていくのではないか…。

 私は、吹き替え版で田中裕子の西太后が「皇帝」と呼びかけるのに違和感を感じていたが、中国語版でも同じように呼んでいて、ちょっと驚いた。あれで正しいのか。臣下→皇帝は「皇上」を使うんだけどね。あと、小さいことだが、吹き替え版では西太后が「乾隆帝」と呼んでいるが、中国語版では「乾隆爺(おじいさま)」と呼んでいるのに納得。しばらく、中国語版と対比させながら見ていこうと思う。

 ちなみに、この動画サイト、投票や感想の投稿もできるようになっていて、「阿信的慈禧,可能是史上慈禧演得最好的(おしん・田中裕子の慈禧=西太后は、これまでで最もすばらしい西太后かもしれない)」なんて感想も投じられている。うん、心配していたけど、第2話まで見た限りでは、私もかなりいいと思ってる。
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懐かしい小さな国/オランダ絵図(K・チャペック)

2010-10-06 23:56:37 | 読んだもの(書籍)
○カレル・チャペック著、飯島周訳『オランダ絵図』(カレル・チャペック旅行記コレクション)(ちくま文庫) 筑摩書房 2010.9

 著者描く、オランダ風景の愛らしいイラストを多数収録した楽しい文庫本。オランダへは一度しか行ったことがない。それも仕事に追われる短い滞在だった。しかし、アムステルダムの古い街並み、ライデンやハーグへ移動する列車の窓から眺めた早春の田園風景は、今もはっきり記憶に残っている。本書のページをめくっていると、ひろびろした平坦な牧草地の緑や、煉瓦の臙脂色や、運河の静謐で深い青が、あっさりした白黒のイラストから浮かび上がってくるように感ずる。

 本書は、著者チャペックが、1931年、世界ペンクラブ大会出席のため、オランダを訪れたときの見聞をもとにしている。私は、最近、オランダの現代ドキュメンタリー映画『ようこそ、アムステルダム国立美術館へ』を見た。この映画では、美術館の改修プランをめぐって、建築家と「サイクリスト協会」が厳しく対立するのだが、1930年代から、既にオランダがサイクリストの国だったということに新鮮な驚きを感じた。さらに著者が、自転車に乗る習慣が国民性に与える影響として挙げている事柄、「自分の面倒は自分で見て、他人の車のことには自分を巻き込まぬ習性がある」とか「チャンスをうかがっていて、少しでも空いている場所を得られそうになると、直ちにペダルを踏み込む」等々には笑ってしまった。

 私は、著者の故国について何も知らないのだが、チェコ人であるチャペックの目に映るオランダは、何もかも小さく、しかし清潔で、秩序と高い品質を保った国に見えるらしい。「彼らの家は他のどの場所よりも小さい。人々の住居は、まるで鳥籠のようにちんまりとして風通しがよい」「彼らの椅子は丈が低いが、座り心地がよく親しめる。小さいが安っぽくはない」「オランダは、形は小さな国であるが、水準は高い」「その民族的理想は大きさにではなく、質に向かっている」云々。なんだか、まるで幕末から明治初期に日本を訪れた西洋人が、日本について語った言葉を聴くようではないか。徳川「鎖国」時代の交易を通して、日本と縁の深いオランダであるが、実は意外と、双子のように似た国なんだ…と思った。

 もうひとつ、軽く読み流すつもりで買った本書で、思わぬ衝撃を受けた箇所がある。著者はオランダで「双頭の鷲」(ハプスブルク王家の紋章)に出会ってしまう。行間に流れる暗欝な感慨のわけを知るには、まず歴史的な事実を確認しなければならない。チェコ人は、16世紀以降、長きにわたってハプスブルク家の支配を受け、政治、宗教面で抑圧され続けた。ハプスブルク家の最後の皇帝カール1世が亡命し、中欧に650年間君臨したハプスブルク帝国が崩壊したのが1918年。まさに著者の「同時代」の事件だった。

 帝国の暴虐な支配を受けた小さな民族のひとりが、異国の地で、帝国盛期の支配の痕跡に出会う。それは、あまり気持ちのいいものではないだろう。しかし、チェコ人は「ハプスブルク王朝を感動的に思い出すことはない」「われわれがそれに組するわけでは全然ない」と、著者は慎重にことわりつつ、この大きな帝国がもたらした文化的接触、人や領地の交換、多様な国々に与えた「共通の精神的な印」に対する、抑えがたい憧憬を語っている。「それらの多様な国々では、何かが互いに目くばせをしているのだ」って、いい表現だなと思った。

 振り返って、東アジアはどうなんだろう。――ということを考えていたが、国土の伸縮こそあれ、ハプスブルク家みたいに完全に滅びた帝国でないと、「超国家性」の基盤にはならないんだろうな。中華帝国も大日本帝国も、その末裔は生き延びているものなあ。
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フィギュアスケート《ジャパンオープン2010/カーニバル・オン・アイス》

2010-10-05 23:47:22 | 行ったもの2(講演・公演)
ジャパンオープン2010/Japan Open 2010(2010年10月2日、13:00~)カーニバル・オン・アイス/Carnival on Ice(同、19:00~)

 また見に行ってしまった、フィギュアスケート。そっと書いておこう。私はアイスショー初体験が、この夏、新潟のFaOI(Fantasy on Ice)。その1週間後がプリンスアイスワールド東京公演。その後はしばらく、八戸行きたいとか福井行きたいとか思いつつ、指をくわえていたのだが、会場がさいたまアリーナと聞いて、堪え切れなくなってしまった。

 ジャパンオープンは「男女シングルの選手が日本チーム、北米チーム、欧州チームの3チームに分かれて団体戦で競う」もの。競技会の形式を取っているが、「演技を終えた選手はリンクサイドに設けられた選手席でチームメイトを応援する」など、アイスショー的な要素も強い。…ということを、まずネットで学習する。なるほど。それにしても、まだアイスショー×2回しか経験のない私が観戦に行って浮かないかなあ、競技終了後にエキシビションガラ公演として行われるアイスショー、カーニバル・オン・アイスにしておくほうがいいかなあ、と悩みつつ、結局、JO(Japan Open)のチケットを取ってしまった。

 お目当ては、何と言ってもプルシェンコ。当初、JOが「タンゴ」でCOIが「ニジンスキー」でないかという噂が流れてきて、慌ててCOI(Carnival on Ice)のチケットも取った。そうしたら、前日くらいになって、最新情報ではJOが「ニジンスキー」だという。ええ、どっちなんだ? 当日、プルシェンコが氷上で演技開始のポーズを決めてもまだ、最初の音楽が鳴り始めるまで、私は半信半疑でドキドキしていた。そして、ほんとに曲は「ニジンスキーに捧ぐ」だった。今年の初めから、動画サイトで繰り返し飽きずに眺めていた”伝説のプログラム”が、いま、目の前のリンクで、同じ人間によって演じられているというのは感動だった。

 演技の出来については、いろいろな評価があった。私は、後半、いまいちスピード感が感じられなくて(ショートサイドで見ていたせいかも)、不完全燃焼な印象が残った。でも、次々と新しい課題に挑戦していくこと以上に、体力気力とも一番優れていたときの自分自身に挑戦する(二番煎じではなく)というのは、勇気が要ることだと思う。中年を過ぎた自分にはよく分かる。

 JOの結果は、日本チームが僅差で北米チームを抑えて優勝。欧州チームは最下位だった。でも、確かに真正の競技会に比べると、選手たちの(コーチ陣も)ほのぼのした表情がたくさん見られて楽しかった。フィギュア初心者が見に行く競技会としては、非常にいいと思った。

 続いて、夜の部、COIは完全なアイスショー。プルシェンコは、白の丸首長袖Tシャツに黒(濃紺?)のボトムという、休日のお父さんみたいな服装で登場したので、え?それであの妖艶な「タンゴ」を滑るの?と思ったら、曲は「僕は病気(Je suis malade)」だった。おおー。これも嬉しかったなあ。今夏のツアーでは「病気」を滑る機会がいちばん多くて、毎回この曲に当たっていた人もいたようだが、私は初見である。しかも、なんだか特別にキレっぷりがいい。見ているこちらの身体も熱くなるような熱演で、衣装なんか要らないんだなーとしみじみ思った(あとで”腹見せ・はみパン”が話題になっていたけど)。

 他の選手では、羽生結弦くんのツィゴイネルワイゼンよかったなー。応援するぞ。川口悠子・スミルノフ組も面白かった。曲は「ツァラトゥストラはかく語りき」で、火の鳥みたいな衣装。個人的には、すごくロシアらしいと思う。安藤美姫は新潟で見て、こんなに優雅なスケーターだったのか、と再認識したけど、今回もよかった。高橋大輔の「アメリ」も「マンボ」も大好きだ。また見に行きたい。

(10/6修正あり)
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発明も世につれ/公文書にみる発明のチカラ(国立公文書館)

2010-10-03 23:50:53 | 行ったもの(美術館・見仏)
国立公文書館 平成22年度秋の特別展『公文書にみる発明のチカラ-明治期の産業技術と発明家たち-』(2010年10月2日~10月21日)

 毎年楽しみにしている国立公文書館の特別展。冒頭には、第1回・第2回内国勧業博覧会の会場図が広げられている。博覧会→発明?と一瞬戸惑うが、勧業博覧会は、単なる「見世物」ではなく、産業技術の奨励、普及、褒章などを目的としていた。とは言え、会場図を眺めていると、第1回(明治10年)は精養軒や風月堂の出店があったのかーなんて、どうでもいいことが気になる。第2回(明治14年)の会場には「羊運動場」と「羊舎」があって、何故?と思ったけど、勧農局の展示場らしい。日本で本格的なヒツジの飼育が始まったのも明治以降なのだ。

 本展では、発明品や発明者への褒章や、特許申請の記録に関する公文書を展示しているが、その参考資料として、当時の広告、写真、製品のサンプル(皮革の切れ端とか)等が貼り込まれているのを面白いと思った。文書を保存する側は大変だろうけど…。

 明治10~20年代の発明は、織物産業に関するものが圧倒的に多い。日本の近代化を牽引したのが、製糸、繊維業だったということがよく分かる。明治14年に、製麺機の特許に関する文書というのがあって、やっと織物産業以外の発明が出てきた、と思ったら、木綿の糸繰り機にヒントを得たと書いてあって、笑ってしまった。

 個人的に好きなのは、第1回内国勧業博覧会に出品された「犬力機」の図。イヌの歩く力でバターを作るものらしい。俵の改良の功績で藍綬褒章をもらったというのも意外だったけど、なるほどなーと思った。乾電池が日本人の発明だというのはびっくりした。明治新政府の軍服に採用された紀州フランネル(フランネルに似せた生地)も知らなかった。

 明治30年代は、軍事に直結した発明が取り上げられている。明治末年~大正年間に入ると、楽器、製薬、調味料など、生活に密着したさまざまな発明が現れ、当時の雑誌や年鑑から探してきた、楽しい広告がパネルで展示されている。
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