見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

安徽・湖北・西安2011【4日日】合肥→武漢

2011-08-14 23:49:32 | ■中国・台湾旅行
■合肥→武漢:合武高速鉄道/中国新幹線(和諧号)

 中国新幹線(和諧号)に初乗車。外国の鉄道に乗るのは大好きなので、嬉しい。しかし、出発直前、浙江省温州で追突脱線事故が起きたために「中国行って、新幹線に乗ってくる」というと、周りの人々には、一様に引きつった反応をされてしまった。



 ちなみに、2011年7月23日の事故は、停車中のD3115列車(CRH1B型)に、後ろからD301列車(CRH2E型/寝台タイプ)が追突するかたちで起きた。今回、われわれが利用したのも、追突した列車と同系統のCRH2型車両である。時速200~250kmの走行スピードは、ちょうど日本の新幹線並み。内装も新幹線そっくりで、すこぶる快適。ただ、お茶とインスタントラーメン用に「熱湯」の出る蛇口が用意されているのは、中国ならではの車内サービスだった。

■武漢:湖北省博物館~宝通寺(洪山宝塔)~無影塔~漢口旧租界

 武漢は、湖北省の省都。長江と漢水をはさんで、武昌・漢陽・漢口の三地区で構成される。重慶・南京と並ぶ「三大かまど」とはよく言ったもので、じりじりと照りつける太陽が、痛いほど暑い。湖北省ローカルガイドの黄さん=老黄(ラオホワン)に迎えられ、ひとまずホテルに荷物を置いたあと、午後は自由行動。

 昼食後、タクシーで湖北省博物館へ。中国中部では最大級の博物館だという。充実した展示内容は、後日フォトチャンネル(8/26公開)で紹介予定。

 再びタクシーで市内にある洪山公園の南、宝通寺(宝通禅寺)へ。妙に賑わっていると思ったら、この日は旧暦7月15日の盂蘭盆会で、暗くなる前に、先祖供養の紙銭を焼く準備をしている人が多かったのだ。



 われわれは、伽藍の奥に見えていた洪山宝塔(元代)に行こうとしたのだが、道が分からず、いったん境内の外に出て見る。右に回ったり、左に回ったりしたが、抜け道が見つからず。最後に「↑理髪店」という坂道を登っていき、家の前の長椅子でくつろいでいたおじいちゃんに、宝塔までの道を聞いてみた。「わしは耳が遠いんじゃよ~」と、すまなそうな身振りを返されたが、側にいたおばあちゃんが、わざわざ坂下の大通りまで降りてきて、「200メートルほど行くと lie shi ling yuan があるから、そこから登りなさい」と、一語一語、ゆっくりした口調で教えてくれた。

 「謝々~」とお礼を言いつつ、実は「200メートル」しか聴き取れていなかったのだが、しばらく行くと「烈士陵園」と書かれた大きな牌坊が見えてきた。これか!と合点して、登っていくと、無事、宝塔にたどりつくことができた。さらに同じ道を戻って、洪山公園の西の隅、武漢最古の石塔、無影塔を見に行く。

 タクシーを拾って、そろそろ夕闇せまる長江大橋のたもとへ。埠頭から渡し舟で、長江右岸の武昌地区から左岸の漢口地区へと渡る。



 漢口は、1858年の天津条約により、イギリス・ドイツ・フランス・ロシア・日本5カ国の租界が置かれたところ。上海の外灘(ワイタン)ほど有名ではないが、さまざまな西洋様式の建築群が残っている。写真は美国(アメリカ)領事館旧址。



 狭い路地では、迎え火ならぬ先祖供養の紙銭を焚く人々の姿も。かくて盂蘭盆の夜は更けゆく。

(8/25記)
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安徽・湖北・西安2011【3日日】毫州→合肥

2011-08-13 23:57:08 | ■中国・台湾旅行
■合肥:安徽省博物館~包公祠~明教寺~李鴻章享堂~李府(李鴻章旧居)

 専用車で毫州から合肥へ。安徽省博物館は、中国の省級博物館としては、小じんまりして地味。近代女流画家の作品展示にスペースを割いていて、めずらしいと思ったら、潘玉良(1899-1977)って、ドラマ『画魂』の女主人公のことか!

 昼食後は、包公祠。清廉潔白な官吏の代表とされる包公こと、包拯(ほうじょう、999-1062)も、中国のTVドラマ『包青天』で覚えた名前である。

 繁華街にある明教寺は、石積みの舞台の上に築かれており、曹操が弩(いしゆみ)訓練の為に築いた教弩台(きょうどだい)であると言われている。いまは若者の行き交う歩行者天国を見下ろしている。



 しばらく歩行者天国を散策した後、やや郊外にある李鴻章享堂(墓苑)に向かう。ガイドの小黄(シャオホワン)君が「李鴻章というのは清代の政治家です」と、真顔で間の抜けた解説をする。え? おめー日本人に対して、その解説で終わりかよ? 日本語が巧くないので、それ以上の説明ができないのか、そもそも歴史を知らないのか、判別ができない。

 李鴻章といえば、日清戦争の講和条約である下関条約で、清国の欽差大臣として(清国にとって)屈辱の調印を行った人物である。中国の近代史を語るには欠かせない大政治家で、小説『蒼穹の昴』にも登場するし、ドラマ『坂の上の雲』第一部にもちらっと出てきた。私は、中国のTVドラマ『走向共和』を見て以来の李鴻章ファンなので、今回のツアーでいちばん楽しみにしていたのが、実は、ここなのだ。

 私の李鴻章好きを知っている友人が、はじめは予定に入っていなかったここを、わざわざ日程に入れてくれたので、「ありがとう! でも李中堂閣下は、日本人が来ることを喜ばないかもしれないけど」なんて、冗談めかして笑っていた。

 そうしたら、現地に近づくにつれ、笑いごとではなくなってきた。わずか15分ほどの間に、一天にわかに掻き曇って、雷鳴が轟き、大粒の雨が落ちてきたのである。やがて車は停まったが、享堂とおぼしき門の前は、工事現場のごとく、大きく土が掘り崩され、全く人の気配がない。改修中? ローカルガイドの女の子が、どこかに携帯電話をかけながら、車を下りて様子を見に行ったが、叩きつけるような雨足に、慌てて戻ってきた。「スミマセン。李鴻章享堂は閉まっています」と小黄(シャオホワン)。なんだと~。

 まあ中国では「よくあること」なんだが、せめて車を下りて写真を撮りたくても、横なぐりの雨が強すぎて、車の窓も開けられない状態。李鴻章閣下の、日本人に対する恨みは、かくも深いか…と慨嘆するばかり。下関で暴漢に狙撃されたときに着ていた、血染めの衣服とかも展示されているらしいんだけどな。



 合肥のローカルガイドさんの提案で、さっきの明教寺のあった繁華街に、もうひとつ李鴻章ゆかりの展示施設があるというので、そこに向かう。再び車で15分ほど走って、到着したときには、すでに雨が上がっていた。



 何だったんだ、あの一瞬の豪雨は…。

 歩行者天国に面した李府(李鴻章旧居)には、豊かな中国を満喫する若者の姿が絶えない。これはこれで李鴻章の魂を喜ばせているのではないかと思った。でも、お墓参りしたかったな。

(8/24記)
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安徽・湖北・西安2011【2日日】上海→毫州(はくしゅう)

2011-08-12 23:57:41 | ■中国・台湾旅行
■毫州:毫州博物館~曹騰墓~曹操運兵道~華祖庵~花戯楼

 寝台車のベッドでは、未明の雷雨に何度か驚かされたが、明るくなる頃には晴れてきた。朝食は食堂車で麺。上海で乗車前に買っておいた菓子パンは出る幕なし。



 安徽省の毫州(はくしゅう)に到着。駅前には、やけに恰幅のいい曹操の像が立っている。ここは三国時代の英雄のひとり、曹操の故里として知られている(今回の旅の前半は、三国志ゆかりの地めぐりなのである)。毫州博物館に続いて、町中に点在する「曹氏家族墓群」のひとつ、曹騰(曹操の祖父、宦官)墓を見学。

 昼食後、「暑いから曹操運兵道に入りましょう」とガイドさんに勧められる。曹操運兵道は、曹操が作らせたと言われる軍用地下道。確かに地下は涼しい。頑強なアーチ型の煉瓦積みの坑道が、単線・複線・二層構造・循環路など、複雑に変化しながら、延々と続く。



(地下道前方の人影は、生きた人間です。念のため)



 古代の地下道の出入口が、にぎやかな町中にあるのも不思議。

 続いて、華祖庵は、古代の名医・華陀(華佗)の故地。日本人にとっては、やはり「三国志」の登場人物として親しい名前だが、中国人は、むしろ「五禽戯」と呼ばれる体操健康法の発明者として認識されているらしい。

 最後は、花戯楼。山陝会館とも呼ばれ、明清時代の山西・陝西商人が集まる会館だった。正門は石の透かし彫り。裏側が歌台(舞台)になっていて、木彫りで飾られる。奥は関帝廟だが、いまは小さな関羽像しかない。



(8/23記)


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安徽・湖北・西安2011【初日】東京→上海

2011-08-11 22:03:17 | ■中国・台湾旅行
■上海:上海虹橋空港~豫園~全聚徳(北京ダック)~白玉蘭劇場(MAGNOLIA THEATRE)~上海駅

 今年も中国へ。いつもの友人2名と、羽田発MU538便で上海虹橋空港着。上海空港を使うのは久しぶりだ。

 スルーガイドの黄さん(男性)は、例年になく若い。あとで聞いたら、ガイド歴3年だそうで、中国ふうに言うと、80后(バーリンホウ)の世代だと思う。人はいいのだが、あまりに頼りない仕事ぶりなので、先輩ガイドさんたちの呼び方に倣って、われわれもひそかに小黄(シャオホワン)と呼び習わす。

 今夜は、上海駅から寝台列車で、安徽省の毫州(はくしゅう)に向かう。出発まで6時間もあるので、「どうしますか?」と相談されたが、何も考えていなかったので、ひとまず上海定番の観光地・豫園(よえん)に連れて行ってもらい、散策する。北京ダックの夕食後、初めて、上海雑技なるものを鑑賞する。中国旅行者として、初心に戻ったような半日上海遊だった。

 ここからが、旅の本番。夜の上海駅へ。



 夜行寝台列車に乗り込む。



 では、おやすみなさい!

(8/23記)
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【ただいま夏休み中】今年も中国11日間

2011-08-11 03:35:25 | なごみ写真帖
明日から夏休み!さあ旅行だ!と思っていたら、出発の準備も済んでいないのに、ウトウト寝入ってしまった。日付が変わる頃に慌てて起きて、さっきまで荷造りしていた。やれやれ。

まあ、明朝(今日)は、早い出発でないから大丈夫だろう。



しばらく更新はできません。

写真はマンゴーアイス。三井記念美術館のミュージアムカフェで食べた「夏野菜とお揚げの胡麻だれ素麺」(美味!)のデザート。おくつろぎくださいませ。

では、いずれ。



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普遍と特殊/近代日本のナショナリズム(大澤真幸)

2011-08-09 23:48:36 | 読んだもの(書籍)
○大澤真幸『近代日本のナショナリズム』(講談社選書メチエ) 講談社 2011.6

 書き下ろしではなく、2006年から2009年にかけて、著者が雑誌等に発表した5本の論考を再録したもの。テーマは表題の「近代日本のナショナリズム」に集約されているが、そのアプローチ方法はバラバラなので、統一的な読後感を得るには、少し読者の努力を必要とする。

 冒頭の「ナショナリズムという謎」は、グローバルな歴史(とりわけ西洋)におけるナショナリズムの生成過程を考える。ナショナリズムとは、「普遍性への志向が、ある段階で突如として停止し、特殊な共同性の水準が生じる」現象である。なぜ、このような、矛盾に満ちた現象が生ずるのか。著者は、資本主義との関連性を指摘する。

 「ナショナリズムからウルトラナショナリズムへ」は、論点を近代日本の歴史的経験に絞り込んだもの。明治期の「ナショナリズム/天皇の国民」は、大正期の「天皇なき国民」を経て、昭和の「ウルトラナショナリズム/国民の天皇」へと転換する。大正期に、社会・文化の隅々に浸透した〈資本制〉が、極大まで規範を普遍化した結果、かえって審級の空無を呼び、「具象的超越への逆説的な回帰」を果たしたと言える。別の箇所を引用するなら、「肝心なのは、規範の特殊性が退避したとき、強力な特殊性が、突如として強力な普遍性の代替物として回帰することができるということである」。私は、これを「普遍性を言い立てる理論には、注意した方がいい」と解釈して読んだ。違うかしら。

 「『靖国問題』と歴史認識」および「〈山人〉と〈客人〉」は、より個別化された問題を扱う。前者は、山田太一のドラマ『終わりに見た街』の分析を通して、敗者を救済することのできる歴史認識について考える。ドラマ『JIN-仁-』が、さんざん言及していた「神」を思い出すところもあった。同じタイムスリップものなので。後者は、柳田国男の「山人」と折口信夫の「客人(まれびと)」を対比させながら、二人の学者が、敗戦が引き起こした日本人の精神的な危機にどう対処したかを考察する。

 以上の論考とは、少し毛色を異にするのが、最後の「現代日本の若者の保守化?」。NHK放送研究所が5年ごとに実施している「現代日本人の意識構造」調査のデータに、独自の分析を加えたものである。われわれは「1990年代から2000年代にかけて、日本人の意識が急激に保守化してきたという印象をもっている」と著者はいう。うん、まあ同意。しかし、著者の分析によれば、日本への自信は「80年代のピーク時には未だ遠く及ばない」という。ああ、私はこの結果のほうが納得できる。それから、近年保守化しているのは「とりわけ若者である」という印象についても、部分的には適合するが、自国への自信の点で保守化を強めているのは、むしろ高年齢層だという。

 また、これは「まえがき」に示されていることだが、日本への強い愛着を表明している者ほど、海外の交流に積極的で、困っている海外の人を助けたいと思う気持ちも強いという。しかし、日本への自信が強い者は、逆の態度を示す。どうやら「自国への愛着」と「自国への自信」は、違うものであるらしい。これは、すごく共感できる結果だった。

 いちばん意外に思ったのは、若者世代で「選挙」「デモ」「世論」等に対する「政治的有効性感覚」が上昇しているという指摘。ただし、著者はこれを額面どおりには取らない。人権や平等などの近代的な普遍概念が失墜した今日、「普遍性をあからさまに拒否すること」だけが、残された普遍性である。それゆえ、若者は、ナショナリズムという特殊性に「アイロニカルな没入」をせざるを得ないのだ、という。アイロニーか。生きにくい時代を生きる知恵なのか。東アジア他地域のナショナリズム的緊張も、根は同じなのかな、違うのかな。
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孫文と梅屋庄吉+博物館できもだめし、そのほか(東博)

2011-08-07 22:37:43 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立博物館 本館・特別5室 特別展『孫文と梅屋庄吉 100年前の中国と日本』(2011年7月26日~9月4日)

 革命家・孫文(1866-1925)と親密な交わりを持ち、物心両面で支援した貿易商、実業家の梅屋庄吉(1868-1934)。彼らに関わった人々やゆかりの地を、当時の資料(主に写真)によって紹介する。

 企画趣旨の「中核となるのは、梅屋庄吉の曾孫にあたる小坂文乃氏の手元で大切に保管されてきたアルバム及び関連遺品」まで読んで、期待して見に行った。そうしたら、冒頭にあったのは、1901年(光緒27/明治34年)伊東忠太がおこなった北京紫禁城調査の写真(撮影・小川一眞)の一群だった。これ、何度も(写真美術館でも東博でも)見てるのに~、と思う。それから、梅屋庄吉旧蔵アルバムがちょっとだけあって、また長崎大学や東博所蔵の古写真群になるのだが、長崎港とか横浜居留地とか、あんまり珍しいものがない。

 後半の『亜東印画輯』収録の中国写真は、「東京帝室博物館」の分類カードに、100~150字ほどの解説(『亜東印画輯』の切り抜きらしい)と一緒に貼り付けるという、整理保存の姿のまま、展示されていて、ちょっと興味深かった。写真集『亜東印画輯』について、詳しくはこちら。写真の解説を、どんな人たちが書いていたのか、気になる。

 しかし、これらをまとめて「誰モ見テイナイ写真」というのは宣伝に偽りありだし、一般800円とはいえ、特別展のスタンプ1回分にカウントするのは、正直、ぼったくりだと思う。特集陳列で、いいんじゃない?

■本館・14室 特集陳列『運慶とその周辺の仏像』(2011年7月12日~2011年10月2日)

 2008年の特集陳列『二体の大日如来像と運慶様(うんけいよう)の彫刻』以来、久しぶりに(かな?)東京・真如苑蔵の大日如来坐像と、栃木・光得寺蔵の大日如来坐像が揃った。まわりは十二神将像。11人しかいない!?と思ったが、よく見たら、神奈川・曹源寺蔵が6体、伝浄瑠璃時伝来が5体だった。静岡・願生寺蔵の阿弥陀如来坐像は記憶になくて、おや新顔?と思ったが、調べたら、2008年にも展示されていた。端正で、力強くて、なかなかよいと思う。1089ブログに写真あり。

■本館・特別2室 親と子のギャラリー『博物館できもだめし-妖怪、化け物 大集合-』(2011年7月20日~8月28日)

 私は妖怪大好きなので、この企画はうれしい。展示品は、怪談本、浮世絵、面、根付などで、さほど目新しいものはなかったが、会場の装飾やパネルのつくりかたに、いろいろ工夫があって、おもしろかった。

入口で待ち構える「五輪塔の妖怪」。ちなみにGoogleで画像検索すると、出てくる。



著名人も多数出演。個人的には、この柳田国男翁が好きだ。



展示室の床にあやしい顔? こういうときは、真上に視線を移すのが、お約束。
振り仰ぐと、そこには…。



あとで、帰ってきてから知ったが、東博のスタッフブログ(1089ブログ)の記事『親と子のギャラリー「博物館できもだめし」 開催中です!」』でも、この「床の顔」に注意を促している。でも、会場で見ていると、気にする人は少ない(ほとんどいない)。

開催中の『空海と密教美術』でも、天井を使った演出がされてなかったっけ?(奈良博の記憶と、混ざっているかな?) いずれにしても、最近の博物館は、広い空間を自由に使った演出を、いろいろ試しているのに、観客の視線が、なかなか展示ケースから離れられないのは、残念に思う。

追伸。帰ろうとしたら、雷鳴を伴うゲリラ豪雨で、しばらく足止め。本館の車寄せで、大勢の人が呆然と雨やどりをしている図が、羅生門みたいだった。
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色づくほおづき

2011-08-05 23:26:52 | なごみ写真帖
ほおずき市で買った鉢植えのほおずきが、だいぶ色づいてきた。



猛暑真っ盛りに関西旅行に出かけたときは、3日間、水をやる人がいなくて、帰ったときは、見るかげもなくしおれていた。なんとか回復して、ここまで色づいたけど、お盆はまた家を開けるので、今週末のうちに、ひとに預けてこようと思っている。

植物でさえ、こう手間がかかるのだから、動物(鳥、金魚)は飼えないなあ…。

でも、子どもの頃は、庭に池があって、一切世話をしなくても、金魚は生きていたけどね。

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ネット配信ドラマ視聴中:『テンペスト』と『朱元璋』

2011-08-04 01:09:53 | 見たもの(Webサイト・TV)
NHK BS時代劇『テンペスト』(2011年7月17日~)

 放映前に噂を聞いて、とりあえず原作だけは読んだ。期待していた方向とは激しく違ったけど、これはこれで、面白いかもしれない、と思った。どっちにしてもBSは見られないし、と思っていたら、たまたま初回は旅先で見ることができた。さらに1週間後(7/23)に、第1回だけはNHK総合で再放送があったので、また見てしまった。

 これきりにしようと思ったのに、ネットの評判が悪くないので、禁じ手の「NHKオンデマンド」で、第2回と第3回を見てしまった…。NHKの思う壺。悔しいが、仕方ない。脚本は、長くて複雑なストーリーをテンポよくまとめている。キャスティングもよくて、出演者が楽しんでいる感じがする。それと、紅型(びんがた)をはじめとする衣装や小道具が美しい。さらに、青い海はもちろん、いわゆる御嶽(うたき)なんだろうな、森の中の巨石がつくり出す神秘的な雰囲気にも、目が釘付けになった。原作でも雰囲気づくりに大きな役割を果たしている琉歌(りゅうか/短詩形の歌謡)を、実際に俳優さんの声音で聴けたのも嬉しかった。ああいう節廻しなのか~。あと、オバァのつくった料理が美味そうだったなあ…。

 ちょっとテンポがよすぎて、全10回持つのかが心配になってきたが、私は原作後半のほうが好きなので、後半をじっくり描いてくれるほうが嬉しい。たぶん、このまま最終回まで見てしまうだろう。にしても、NHKオンデマンドの「見逃し視聴」は210円/1日(24時間)。ちゃんと受信料を払っているのに、二重取りされるようで不満だが、これからは、こういう「オンデマンド」視聴が主流になっていくんだろうな、と思う。

 で、もうひとつネット配信で視聴中のドラマがある。

■『大明帝国 朱元璋』(2006年、上海三九文化発展有限公司、中国国際電視総公司制作)

 中国ドラマであるが、『GyaO!ストア』で見ている。ここも無料映像しか見たことがなかったのだが、無料の第1~5話を視聴したあと、続きが見たくなって、6~11話パックを購入してしまった。6話パックで840円/14日間。まあ妥当な価格だろう。

 全46話。まだ10話までしか見ていないが、日本の大河ドラマの雰囲気(ただし最近ではなく昭和の)によく似ている。明の太祖・朱元璋(重八)が主人公で、貧しい子供時代から始まり、幾多の困難を乗り越えて、成り上がっていく。中国の歴史ドラマは、むしろ群像劇のほうが多くて、こういう「一代記もの」は珍しいのではないかと思う。私は知らなかったが、最近まで、ケーブルテレビの「チャンネル銀河」で放映されていたらしい。うん、日本人には入り込みやすい中国ドラマだろうな、と思った。

 朱元璋役の胡軍(フー・ジュン)は、もとから私の好きな俳優さんで、純朴な青年時代もよかったが、これから権謀術数を身につけて、皇帝らしくなっていくのが楽しみだ。最晩年まで描くようである。朱元璋(1328-1398)は70歳まで生きるんだな。今日見ていた第10話では、ひたすら字を書いている(習っている)場面があったが、そういえば、江戸博に『北京故宮 書の名宝展』が来たとき、王羲之や顔真卿の名品が並ぶ中に、朱元璋の書があったなあ、と、しみじみ思い出した。

 いま、中国語サイトに情報を探しに行って気づいたが、原題は『朱元璋』である。「○○帝国」って呼びたがるのは、日本人の感覚なんだろうな。ドラマを見ていると、久しぶりに南京に行ってみたくなってきた。
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軍事情報から近代資料へ/外邦図(小林茂)

2011-08-03 00:35:57 | 読んだもの(書籍)
○小林茂『外邦図:帝国日本のアジア地図』(中公新書) 中央公論新社 2011.7

 「外邦図」と呼ばれる一群の地図が存在することは、知っていた。何かを探していて、たまたま、東北大学の「外邦図デジタルアーカイブ」にアクセスしたことがあったのかもしれない。外邦図とは、文字どおり解釈すれば、第二次世界大戦終結以前の「日本の領土以外の地図」を指すことになるが、それでは、この一語に籠る複雑なニュアンスが抜け落ちてしまう。「外邦図とは何か」という基本を理解するためには、せめて本書を通読する必要があるようだ。

 第一に、その淵源は意外と古い。日本では、1880年代初め、外国人技術者の助力を得て、近代的な三角測量が始まる。その一方、外邦図の作成は、三角測量の開始以前から、精度の高い欧米の海図に依存しつつ、始まっていた。その典型が「朝鮮全図」(1875年)である。うーむ、私、この地図と思しきものを、某所で見たことがあるのだが…。

 その後も朝鮮・中国では、陸軍将校らによる測量が実施された。初期には現地高官の庇護のもとで、日清・日露戦争期には組織的に、その後は秘密測量として、続けられた。興味深いのは、日露戦争で、本格的な陸戦の始まりとされる鴨緑江渡河作戦(1904年2月8日)の際、ロシア軍将校の遺体から、詳細な南部満州地図を入手するという幸運が発生していたことだ。もし日本陸軍が同じものを作製しようとすれば、「数年の労力と巨大の費用」を要したであろうと、大山巌参謀総長が訓示している。前線で敵兵から入手したり、従軍した測量隊が作製した地図は、すぐに複写して各隊に分配された。謄写版やカーボン紙が用いられたという。いやー戦争をするって、大変なことだなと思った。

 第一次世界大戦以後は、空中写真測量が本格的に発展する。当時の地図資料や空中写真は、第二次世界大戦の敗戦と同時に、多くが焼却されてしまった。しかし、アメリカ議会図書館には、日本軍撮影の空中写真約2,000枚が収蔵されている(2002年に判明)。これだけでも驚いたのに、さらにアメリカ公文書館には、日本軍撮影の空中写真が約3万7,000枚ある(カンザス州の倉庫にあって、ワシントンで閲覧申請すると、翌日空輸されてくる)という話には、ほとほと呆れてしまった。整理の難しい大量の資料を「とにかく捨てずに保管していた」姿勢に敬服した。責任ある組織(国家)には、ものごとを短期的な必要性や利便性だけで判断しない、こういう機関って必要なんだよなあ…と思う。

 なお、日中戦争の初期、「いまなお議論が続く」南京事件(1937年12月)の際、日本軍は中国(国民政府)軍参謀本部等で、最新の中国地形図を大量に発見し、押収した。このことは「日本軍の地図事情を一変させた」という。東アジアの近代を通じて、地図は、戦争の帰趨を決する重大な軍事情報であり、前線では、常にその争奪戦が繰り広げられていたわけだ。本書を読んでいると、たかが地図1枚が、多くの人命を左右した生々しさに、息苦しくなってくるほどである。

 現在、日本国内に残る外邦図は、主に東北大・京大・お茶の水女子大と、陸上自衛隊(非公開)に分有されている(詳しくは本書で)。三大学のコレクションは、デジタルアーカイブを通じて公開が進められているが、中国大陸と朝鮮半島の地図は、秘密測量や押収図を元にするものが多いこともあって、公開に至っていないという。確かに本書を読むと、関係諸国の研究者や市民との間に、築かなければいけないコンセンサスの重要性がひしひしと伝わってくる。

 ヨーロッパでは、第二次世界大戦中に連合軍が撮影した空中写真に、ドイツ軍から接収した空中写真を加えた「空中偵察アーカイブズ」(The Aerial Reconnaissance Archives)が立ちあがっており、ひとつのモデルケースと言えるかもしれない。戦争遂行と植民地統治の道具だった外邦図を、当該地域の人々とともに活用できる、景観や自然環境の近代資料に転換していきたいという著者の願いに、支援と共感を送りたいと思う。
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