○リービ英雄『大陸へ:アメリカと中国の現在を日本語で書く』 岩波書店 2012.4
副題のとおりの内容。四つの章からなる。I章は、2009年1月20日、バラク・オバマの大統領就任式を取材するため、ワシントンに滞在した2日間の見聞に始まる。著者が中学生だった頃(1963年当時)、まだ有色人種差別の残っていたジョージタウンに住んでいた、母の友人の日系人の思い出。同じ時代を描いた大統領の自伝。3月末、アジア学会のために再びアメリカに渡った著者は、アフリカン・アメリカン研究の創設者、ジョン・ホープ・フランクリンの追悼記事を読み、1941年のエピソードに驚く。学会会場の出版社ブースで見つけた、本格的な中上健次論。そこに、フランクリンの弟子、ヘンリー・ルイス・ゲイツ・Jr.のことばを見つける。…というように、時間と空間、白人の「アメリカ」と有色人種の「アメリカ」、日本のマイノリティ/差別論などが、めまぐるしく、しかし、ひとつひとつ、鉛のような重みをもって交錯する。
いま、華やかなスポットライトを浴び、世界中の注目を集めているイベント(オバマの大統領就任)の影に、誰も振り返らなかった人々の苦しみの長い歴史があること、それは「アメリカ大陸」という空間を超えて、極東の私たちの島にもつながりを持っていることを考えさせられた。
こうした文章を「小説」と呼ぶのは奇異かもしれない。でも、これは、日本の近代文学の正統「私小説(心境小説)」のスタイルだと思う。著者は「日本語」と「日本の近代小説のスタイル」という蟷螂の斧で、「中国」そして「アメリカ」という、二つの大陸に立ち向かっているようにも見える。ほかにこういう小説家を知らない私にとって、著者の挑戦は、日本文学に豊かな果実をもたらす試みとして、深く感謝したい。
II章は、中国、河南省への旅。河南省は、中国の中でも貧しい省として知られている(洛陽とか開封とか、古い都の置かれた地域なので、そう聞いたときは、ちょっと意外だった)。著者は、地元の大学院生夫妻の家を訪ね、60歳に近い母親から、文化大革命当時の話を聞く。
III章、再びアメリカ。IV章、再び中国、河南省。道端で知り合いになった農民が、「人民の生活が見たい」という著者を炭鉱労働者の家に案内してくれた。その農民の家に戻ってきたとき、テレビにマクドナルドのコマーシャルが流れ、見ていた少年が「要(ヤオ)!/ほしい!」と画面を叩いて叫ぶ。二つの大陸は、はるかな距離を超えて、こうしてメディアの上で火花を散らすように出会っているのだ、と思った。
最後のタイトルとなっている「天が黒くなる前に(天黒前)」は、「暗くなる前に」の一般的な表現だが、日本語に直訳すると、シンボリックな意味が感じられる。日本語~中国語~英語を自由に往還することで、言語に対する研ぎ澄まされた感覚を味わうことができる。
副題のとおりの内容。四つの章からなる。I章は、2009年1月20日、バラク・オバマの大統領就任式を取材するため、ワシントンに滞在した2日間の見聞に始まる。著者が中学生だった頃(1963年当時)、まだ有色人種差別の残っていたジョージタウンに住んでいた、母の友人の日系人の思い出。同じ時代を描いた大統領の自伝。3月末、アジア学会のために再びアメリカに渡った著者は、アフリカン・アメリカン研究の創設者、ジョン・ホープ・フランクリンの追悼記事を読み、1941年のエピソードに驚く。学会会場の出版社ブースで見つけた、本格的な中上健次論。そこに、フランクリンの弟子、ヘンリー・ルイス・ゲイツ・Jr.のことばを見つける。…というように、時間と空間、白人の「アメリカ」と有色人種の「アメリカ」、日本のマイノリティ/差別論などが、めまぐるしく、しかし、ひとつひとつ、鉛のような重みをもって交錯する。
いま、華やかなスポットライトを浴び、世界中の注目を集めているイベント(オバマの大統領就任)の影に、誰も振り返らなかった人々の苦しみの長い歴史があること、それは「アメリカ大陸」という空間を超えて、極東の私たちの島にもつながりを持っていることを考えさせられた。
こうした文章を「小説」と呼ぶのは奇異かもしれない。でも、これは、日本の近代文学の正統「私小説(心境小説)」のスタイルだと思う。著者は「日本語」と「日本の近代小説のスタイル」という蟷螂の斧で、「中国」そして「アメリカ」という、二つの大陸に立ち向かっているようにも見える。ほかにこういう小説家を知らない私にとって、著者の挑戦は、日本文学に豊かな果実をもたらす試みとして、深く感謝したい。
II章は、中国、河南省への旅。河南省は、中国の中でも貧しい省として知られている(洛陽とか開封とか、古い都の置かれた地域なので、そう聞いたときは、ちょっと意外だった)。著者は、地元の大学院生夫妻の家を訪ね、60歳に近い母親から、文化大革命当時の話を聞く。
III章、再びアメリカ。IV章、再び中国、河南省。道端で知り合いになった農民が、「人民の生活が見たい」という著者を炭鉱労働者の家に案内してくれた。その農民の家に戻ってきたとき、テレビにマクドナルドのコマーシャルが流れ、見ていた少年が「要(ヤオ)!/ほしい!」と画面を叩いて叫ぶ。二つの大陸は、はるかな距離を超えて、こうしてメディアの上で火花を散らすように出会っているのだ、と思った。
最後のタイトルとなっている「天が黒くなる前に(天黒前)」は、「暗くなる前に」の一般的な表現だが、日本語に直訳すると、シンボリックな意味が感じられる。日本語~中国語~英語を自由に往還することで、言語に対する研ぎ澄まされた感覚を味わうことができる。