見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

過去と対話する街/特集・上野の杜の記憶(雑誌・東京人)

2021-09-16 21:27:01 | 読んだもの(書籍)

〇『東京人』2021年10月号「特集・上野の杜の記憶」 都市出版 2021.10

 ときどき気になる特集を企画する雑誌だが、久しぶりに購入して、舐めるように読み尽くした。上野は、幕末、彰義隊と新政府軍の血戦の場となり、その後「徳川の世」の記憶を消し去るかのように、様々な文化施設を備えた西洋式公園が整備されて、今日に至る。「日本の近代化とは何であったのか」という問いとともに、上野の歴史を掘り返す特集となっている。

 問題提起の役割を担うのが、吉見俊哉氏と中島京子氏の対談。吉見氏は、近年『東京裏返し』などの著作で、歴史を踏まえた東京の新たな街づくりを構想し、特に上野の重要性について発信している。 中島氏の小説『夢見る帝国図書館』は「図書館を主人公にした小説」だという。ほとんど小説を読まない私だが、ちょっと読んでみたくなった。上野は、混ざり合う街、居場所を失った人が集まる街であり、過去の記憶(死者や敗者の記憶)と対話できる場所であるということで、二人の認識は一致する。

 近藤剛司氏は、不忍池の景観の歴史を概説する。江戸初期の不忍池は、現在の三倍近い面積があったというのは知らなかった。昭和50年代までは池の水が凍り、子供が上に乗って遊んでいたというのも知らなかったなあ。私、東京育ちだけど。

 寛永寺貫主・浦井正明氏と東博の皿井舞氏は、寛永寺について語る。東叡山寛永寺は、寛永2(1625)年、天海僧正が創建した天台宗の別格大本山。皿井氏が担当し、この秋、東博で開催される、伝教大師1200年大遠忌記念特別展『最澄と天台宗のすべて』に絡めて紹介されているので、兵庫・一乗寺の『聖徳太子及び天台高僧像』10幅が揃うのは11/2~10のみ、という貴重な情報もゲットした。

 上野は京都・滋賀の「見立て」として整備された。東叡山寛永寺は比叡山延暦寺、不忍池は琵琶湖の見立てで、池の中に島を造り、わざわざ竹生島の弁財天を勧請した。上野の山には清水観音堂を建立し、現存しないが、祇園堂や大仏殿もあったとのこと。さらに吉野の桜を植え、琵琶湖の紅白の蓮を移し、アカマツ林をつくるなどして、江戸の庶民を引き付ける工夫が凝らされた。幕府の官僚たちは、将軍家の祈祷所を観光地にすることに反対したが、天海は「人が来ないと寺じゃない」という信念に従い、幕府の援助がなくなると、自分で資金集めをして環境整備を続けたという。天海、おもしろいなあ。こんなにおもしろい人とは思わなかった。

 安藤優一郎氏は、彰義隊の戦いについて詳述。 今年の大河ドラマ『青天を衝け』でも描かれたとおり、渋沢栄一の従兄の成一郎が彰義隊の初代頭取だったことが紹介されている。これ、私は昨年、吉見俊哉先生の『東京裏返し』で初めて知った話である。

 フリート横田氏は、アメ横の歴史を語る。終戦直後、満鉄や朝鮮鉄道など旧植民地の鉄道関係者が、古巣である旧国鉄とのコネクションを使い、ガード下を優先的に借り受けて露店を出したのが始まり。その後、外国人、特に在日コリアンたちの存在が、一帯の大規模開発を難しくし、結果的にアメ横らしさが守られたという。

 昭和24(1949)年、GHQから露店撤廃令が出され、昭和26年までに東京都内の常設露店は、全て廃止を迫られることになった。この対策を担ったのが、建設局長の石川栄耀である。吉見先生の『東京復興ならず』に登場した人物だ! 石川は、路上から追われる露天商たちの境遇を思い、西郷会館と上野広小路会館という建物をつくり、露店商たちの共同ビルとした。どちらも現存していないが、西郷会館は比較的最近まであったので、ネットで検索すると、あずき色の外装に「聚楽」(縦書き)の大きな文字が特徴的な外観写真を見ることができる(しかし全然忘れていた)。現在、2012年に開業した「UENO3153」が建つ場所である。都内から全露店が消えた昭和26(1951)年の大晦日、石川が街へ出て露店最後の夜を見てまわったというのも、いいエピソードだと思った。

 老舗の店主インタビューのうち、中華レストラン「東天紅」上野店総支配人の話によれば、東天紅の経営主体は「赤札堂」で、大正期に深川で衣料品を営んでいた創業者の母が、昭和20年、上野広小路に店舗を新築して再興した赤札堂(現・ABAB)がルーツだという。で、流通業の赤札堂から飲食業に参入したのか。門前仲町のスーパー赤札堂にいつもお世話になっているので、興味深かった。

 表紙と特集の扉絵は山口晃画伯。細部をよく見ると、D坂(団子坂)があって、その近くの二階にいるのは森鴎外?とか、浅草通りの上野寄りで柔道着の二人が向き合っているのは講道館発祥の地?など、隠しキャラがたくさんいて見飽きない。

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優美と豪快/桃山の華(五島美術館)

2021-09-14 21:16:49 | 行ったもの(美術館・見仏)

〇五島美術館 館蔵・秋の優品展『桃山の華』(2021年8月28日~10月17日)

 絵画、書、工芸、古典籍など、時代の美意識を映した華やかな名品の数々を紹介。展示室に入ってすぐ目に入るのが、『秋草蒔絵文箱』と『古伊賀水指(銘:破袋)』。前者は、箸箱(筆箱)みたいな細身の箱で、薄、菊、桔梗、撫子などの華奢で可憐な秋草で包まれている。桃山の「優美」を昇華させたような工芸品。後者は焼成の際にできた大きな窯割れと歪みが魅力で、桃山の「豪快さ」「力強さ」の代表と言えるだろう。『破袋』は、緑色の強く出た側が「正面」として扱われているが、実は、向かって右の側面から見た様子がとてもいい。全体が少し前に傾いていること、割れ目を境として前後の色が全く違うことなど、「豪快さ」に拍車がかかる感じだ。

 冒頭の「人と筆跡」には、光秀、信長、秀吉の書状が出ており、史料好きにも興味深い展示だった。続く書画では、『加藤清正母像』と『加藤清正像』が珍しかった。どちらも京都・本圀寺の勧持院に伝承したものという解説があった。調べたら、現在、本圀寺は山科にあるが、旧塔頭の勧持院は下京区にあるそうだ。

お寺の風景と陶芸:勧持院 (京都市下京区)加藤清正ゆかりの寺

戦国を歩こう:勧持院と清正公碑

 清正の母・伊都は娘時代から日蓮宗の信者で、清正もその感化を受けたという。『加藤清正母像』は、艶やかな総柄の着物を着た垂髪の婦人が上畳(畳縁が極彩色で華やか)に座る図で、頭上には天蓋が浮かび、天蓋と肖像の間に、ひげ文字の「南無妙法蓮華経」が記されている。『加藤清正像』は、江戸の錦絵に描かれるようなドングリ眼の髭面ではなく、面長で髭は少なめ。バランスのとれたガタイのよさが感じられ、バスケの選手みたいだと思った。

 この展覧会、タイトルは「桃山の華」だが、実は琳派など江戸初期の作品も多数出ている。後半は、光悦+伝・宗達の『鹿下絵和歌巻断簡』や光琳の『紅葉流水図』を楽しませてもらった。伝・宗達筆『業平東下り図(伊勢物語富士山図)』はかわいいなあ。小さな画面に閉じ込められた素朴な構図だが、白い富士山は雄大だし、人物にも馬にも躍動感があって好き。乾山の『四季花鳥図屏風』は、さまざまな表情を見せるサギ(たぶん)が可愛い。乾山、こんな可愛い絵を81歳で描いてるんだなあ。

 茶入や陶芸も多様な作品を見ることができた。もっと広い家に住んでいたら、古備前や古伊賀の堂々とした花生を飾ってみたいが、今の生活で使えるのは、絵唐津四方筒向付かな(日替わりで楽しめるし)と思った。

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稿本・模本で楽しむ/人をえがく(根津美術館)

2021-09-13 20:12:37 | 行ったもの(美術館・見仏)

根津美術館 企画展『はじめての古美術鑑賞-人をえがく-』(2021年9月11日~10月17日)

 古美術の見どころを分かりやすく解説する展覧会「はじめての古美術鑑賞」シリーズの5回目。今回は、さまざまなジャンルにわたる人物画をとりあげる。個人蔵や他館からの出陳、初公開作品など、目新しいものが多くてテンションが上がった。

 はじめに「聖なる人びと」は、祖師像、祭神、歌仙など。鎌倉時代の『法相曼荼羅』には、釈迦の足元に僧形の無著菩薩と美麗な慈氏菩薩(弥勒)を配し、その下に祖師たちが並ぶ。よく無著・世親と並称するけれど、世親は祖師(大師)たちの中にいた。無著さんは特別なのだな。大きな『弘法大師像』は、鎌倉時代の作と思えないくらい色鮮やかで状態がよかった。「大師会蔵」とあり、根津嘉一郎が高野山霊宝館の設立に尽力したことを思い出す(霊宝館の開館100周年記念大宝蔵展で知った)。

 「高貴な人びと」は、興味深い模本が多数出ていた。『嵯峨天皇像』(江戸時代)は堂々とした完成品だが、中世に制作された御影の模本であろうとのこと。嵯峨天皇がどんな顔をしているかなんて考えたこともなかったが、引目鉤鼻の公卿顔でなく、面長で目鼻立ちがはっきりして知的な風貌である(中国の古装劇に出てきそう)。冷泉為恭の『伝菅原光能像模本』は、いわゆる神護寺三像の模写だが、劣化した現物では感じにくい、像主の貴公子らしい気品と華やかさがよく分かった。住吉如慶の『承安五節絵模本』は初見だと思うが、承安元年(1171※高倉天皇代)の五節行事を描いた『承安五節絵』という、失われた画巻の模本である。調べたら、模本は複数存在するのだな。描かれた公卿たちの中に、成親、隆季、師長など、このあと動乱の波に翻弄される人々の名前を見つけて、しみじみした。

 「異国の人びと」では、禅宗の祖師『百丈懐海像』(室町時代)がよかった。子供が描いたお父さんの肖像のようで、巧くはないが、素直な愛情と尊敬の気持ちが滲み出ていた。また賢江祥啓の『飼馬図』2幅は初公開とのこと。それぞれ馬と馬飼の男を描く。1幅は黒馬、もう1幅は黄色(栗毛?)で、どちらもよく手入れされた毛並みのつやつやした感じが、絵具の繊細な濃淡で表現されている。宋元時代の院体画の写しだろうという。でも中国絵画の馬って、だいたい怖い顔をしているのだが、この子たちはアップで見ると可愛い。あと馬飼のブーツが、乗馬用なのか、ちょっと特殊な構造をしていそうなのも気になった。

 「市井の人びと」で印象的だったのは『風流踊図衝立』(江戸時代、171世紀)。2曲1基の木製の衝立の板面に直接、大勢の人々が群れ集う絵が描かれている。左右それぞれに風流傘が1基描かれており、左隻のほうが踊りの輪が大きい。中心近くで身をかがめて踊るペア(1人は烏帽子をかぶり、腰に鼓)のまわりを鼓、太鼓、笛などの楽人が囲み、その外側で大勢が輪になって、体を揺らして踊っている。手ぬぐいをかぶり、扇を広げる者もいる。右隻には、赭熊をつけたような踊り手が見える。

 第2室は文人の肖像が面白かった。『谷文晁像稿本』(個人蔵)は息子の谷文一が描いたもの。50歳の文晁は瘦せ型で面長、背広に着替えたら現代人の中に混じっていても違和感のない風貌である。迷いのない線の強さが魅力的で、短時間で描くクロッキーを思わせた。さらに渡辺崋山の『岡田東塢図稿本』(足利市民文化財団)、椿椿山の『大橋淡雅像』『高久靄厓像稿本』(どちらも栃木県立博物館)など、珍しい作品を見ることができて眼福。椿山の高久靄厓像は、完成作より稿本のほうが迫真性が高いと言われているそうだ。

 2階、展示室5は「陶片から学ぶ-朝鮮陶磁編-」。昨年の「中国陶磁編」に続く2回目である。根津美術館は、昭和20(1945)年に解散した東洋陶磁研究所から陶片資料を譲り受けて所蔵しているのだそうだ。今回の展示は、山田万吉郎が採集したものと浅川伯教が採集したものから成る。山田コレクションでは、万暦年間の陶製墓誌の破片(万暦三島墓誌)に驚かされた。浅川コレクションは、北朝鮮での採集分を含む点が貴重であるとのこと。

 展示室6は「残茶-秋惜しむ-』。秋の風情にふさわしい、落ち着いた趣きの道具が揃っていた。むかしは貧乏くさい粉引徳利の良さが全然分からなかったが、ちょっと欲しいと感じるようになってきた。絵唐津の盃とあわせて。

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訳詩と創作/森鴎外の百首(坂井修一)

2021-09-11 23:24:45 | 読んだもの(書籍)

〇坂井修一『森鴎外の百首』(歌人入門) ふらんす堂 2021.8

 森鴎外の詩歌百首を選び、200~250字くらいの短い鑑賞文を付したもの。短歌だけではなく、訳詩、創作詩も含む。ただし長いものは、短歌と同程度の数行が抽出されている。年代順に『於母影』(1889/明治22年)に始まり、鴎外最後の文学作品と言われる『奈良五十首』(1922/大正11年)に至り、「常磐会詠草」から2首を付け加えて終わる。百首を通じて、文芸作家としての鴎外の人生、明治から大正の日本の歴史を追体験する趣きがある。

 中学生高校生の頃、鴎外の小説はとっつきにくくて、どれも駄目だった。それが不思議なもので、中年(40代)になってから、職場の同僚に勧められたのがきっかけで、『渋江抽斎』などの歴史小説をいくつか読み、ロマンチックで幻想的な怪談アンソロジーを読み、『うた日記』に日露戦争の従軍体験を歌った詩があることを知り、『奈良五十首』は気に入って繰り返し読んだ。しかし、自分と相性のいいところばかりつまみ食いしてきたので、鴎外の本領には出会ってこなかった気がする。

 本書のありがたいところは、鴎外の訳詩をたくさん採っているところで、著者が巻末の解説「テエベス百門の抒情」に「短歌だけ選んで解説したのでは、この巨人の抒情詩人としての魅力を伝えきれない」「(鴎外自作の詩歌には、優れて良いものがたくさんあるが)鴎外の詩の翻訳は、これらをはるかに陵駕して凄い」と書いているとおりである。

 私は『於母影』や『沙羅の木』に収録されている訳詩も『ファウスト』翻訳も、ほぼ初めて読んだ。さすが『於母影』は格調高い。それに比べると『ファウスト』や『沙羅の木』は、格調や音律を崩さず、自在に口語を入れ込んでいるところに手練れを感じる。中には、普通の口語なのに詩歌として成立しているもの「海に漂ってゐる不思議な鐘がある。/その鐘の音(ね)を聞くのが/素直な心にはひどく嬉しい。」もあって、その言語感覚の鋭敏さに唸る。この訳詩(の一部)を、著者は「鴎外訳の中でも、最も美しい詩句のひとつ」と評価している。

 著者には訳詩ほど評価されていない鴎外の創作短歌も、初めて読む私には面白かった。『沙羅の木』「我百首」の、あまり技巧を弄せず、目の前を光景を上から下へ読み流したような歌が好きだ。「大多数まが事にのみ起立する会議の場(には)に唯列び居り」「『時』の外(と)の御座(みくら)にいます大君の謦咳(しはぶき)に耳傾けてをり」など。後者は御前会議か何かの儀式で天皇陛下の咳払いを聞いたというもの。

 伝統的な和歌にはない、ちょっとドキリとする漢語を据えたものもよい。「善悪の岸をうしろに神通の帆掛けて走る恋の海原」など。突如として妄想が全開するものもある。「書(ふみ)の上に寸ばかりなる女(をみな)来てわが読みて行く字の上にゐる」は、明恵さんか澁澤龍彦を思わせる。

 そして最晩年の『奈良五十首』は、あまり尖った表現はないけれど、余裕とユーモアが感じられて好ましい。本書は、鴎外という巨人がたどった足跡を、さっと概観するための入門書としても好適だと思う。

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門前仲町グルメ散歩:台湾を味わう

2021-09-10 20:07:04 | 食べたもの(銘菓・名産)

 永代通りに「純生カステラ キミとホイップ」というお店がオープンした。公式サイトには「台湾」の文字はないようだが、いくつかのネット記事には「台湾カステラ」「台湾・淡水が発祥の台湾スイーツ」と紹介されている。

 最後に淡水に行ったのは2018年12月で、何というお店だったか、ざぶとんみたいに大きなキツネ色のカステラがどんどん焼き上がり、店頭で切り分けながら売られているのを見た。流行りものとは知らずに珍しいものを見たと思っていた。

 食べてみたら、日本のカステラとはかなり違って、固めのチーズ蒸しパンみたい。卵の味がしっかりしている。

 ご近所には、昨年暮れにオープンした台湾茶専門店「自慢茶軒TOKYO」というお店もあって、天心や食事メニューもある。私が気に入っているのは台湾七彩飯糰(台湾おにぎり)。黒もち米のおにぎりで、中に高菜や揚げパン、大豆ソーセージなどが入っている。1つテイクアウトすると、軽い食事になる。思い立ったら台湾に行ける日常が、早く戻ってくることを願いながらいただく、

 おまけ。今日のお昼は久しぶりに「アンマール」のとりサンド。揚げどりに白パン、スイートチリソースにした。

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ボカシと移行期の多様性/日本の先史時代(藤尾慎一郎)

2021-09-08 21:54:31 | 読んだもの(書籍)

〇藤尾慎一郎『日本の先史時代:旧石器・縄文・弥生・古墳時代を読みなおす』(中公新書) 中央公論新社 2021.8

 私の場合、日本の歴史で一番興味がないのが先史時代である。博物館に行っても、だいたい先史時代をすっ飛ばすのだが、たまにはいいかなと思って読んでみた。本書は、日本の先史時代を「移行期」という視点から通史的に考えたものである。

 旧石器時代から縄文時代への移行の指標は、土器、竪穴住居、石鏃と土偶(狩猟とまつり)とされている。かつて土器の出現は1万2000年前、寒冷期が終わって温暖な時代となり、それに適応した生活様式が始まった時期と一致すると考えられていたが(≒たぶん私が小中学校で習った歴史)、1980年代以降、加速器を使った炭素十四年代測定の厳密化により、土器の出現は1万6000年前まで遡ることになった。最も古い土器は青森や帯広で見つかっており、サケなどの魚油採取に使われたと推測されている。一方、これには遅れるが、九州南部では、ドングリなどの堅果類を食料とした暮らしが本格的に始まり、土器の使用が急激に増加した。最も古い竪穴住居は鹿児島や栃木で見つかっている。

 石鏃(弓矢の使用)は温暖化による動物相の変化に対応したものだ。土偶は何らかのまつりで使用されたものと考えられる。人々が定住化し、ずっと同じ顔ぶれで暮らすようになると、ストレスや軋轢が生じ、それを緩和する装置としてまつりが必要となったのではないか、という著者の推測はちょっと面白い。同じ日本列島の中でも、指標の出現年代や展開の仕方が、地域によって異なることが整理されており、とても納得がいった。

 次に縄文時代から弥生時代へ。かつては弥生式土器が弥生時代の指標と考えられていたが、1970年代に指標を水田稲作に変えようという動きが起きる。そして水田稲作の始まりと定着にも地域差があることが分かってきた。最も早く水田稲作を始めたのは九州北部で、複数回の洪水で水田が砂に埋没しても、一度始めた米づくりを継続した。中部・関東では、まずアワ・キビ栽培が始まり、500年くらいかけて水田稲作へ移行した。東北北部では、前3世紀や前4世紀の水田跡が見つかっているが、気候変動によって農耕民は姿を消し、最終的に南下してきた続縄文文化圏に吞み込まれる。この東北北部の水田稲作をどう考えるか、水田稲作を行っていれば弥生文化なのか、というのは重要な論点である。

 弥生時代から古墳時代へ。古墳時代は前方後円墳の出現をもって始まる。では、前方後円墳とは何か。学術的には「弥生時代の墳丘墓の地域性を断ち切った画一性を持ち、規模や副葬品の量を飛躍的に拡大させた大型の前方後円形の墳丘を持つ墓」と定義される。弥生時代の各地に存在した墳墓の要素を統合し、新たに創造された墓制なのだ。たとえば、豪華な副葬品は九州北部に由来する。鏡・剣・玉という、のちの三種の神器につながる組合せの副葬品を有する弥生厚葬墓もあるという。巨大な墳丘は山陰や吉備で現れる、など。

 副葬品のなかでも注目されるのが中国鏡だ。弥生時代には、鏡を共有することに集団を統合する機能があったが、古墳時代になると、鏡の大きさや枚数で保有者が格付けされるようになる(へえ!)。鉄剣・鉄刀も弥生時代から継続して出現する資料だが、その分布を見ると、副葬品の種類によって物流ルートが異なっていたことが分かる。また、それまで地域性が強かった土器も、古墳時代には広域に移動する様子が見られ、列島に「自由で開かれた」交易ネットワーク(韓半島や続縄文文化圏ともつながる)が存在したことを感じさせる。

 本書には、著者の考える各時代の始まりが、具体的な年代とともに提示されているが、そこは省略する。私は、本書に示された各時代の暮らしぶりと、そこから想像される人々の思想や信仰が、ここまで分かるのか、という感じで面白かった。たとえば、土偶は水田耕作が始まると姿を消し、新たに男女の表象からなる木偶が現れるという指摘をメモしておく。

 終章には、北海道・東北北部の「北のくらし」と奄美・沖縄の「南のくらし」についてまとまった記述があり、特に北の「続縄文」に関する記述が興味深かった。道央はサケ、道南はヒラメ(大きい個体が多い)、道東はメカジキへの依存が高かったという。また、かつては北海道人は水田稲作を行いたかったが寒冷な気候のため叶わなかったと説明されてきたが、現在では、漁撈中心の生活のほうが効率的だったと考える。そりゃそうだよね。

 ぼんやりと画一的だった先史時代のイメージが、だいぶ明らかになった。なお、著者は国立歴史民俗博物館の「先史・古代」展示リニューアル(2019年3月→2019年8月参観)に関わられた方で、本書は展示の新書版であることが「おわりに」に示されている。

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東京長浜観音堂(日本橋)を見に行く

2021-09-07 21:03:22 | 行ったもの(美術館・見仏)

東京長浜観音堂 『聖観音立像(長浜市南郷町)』(2021年​7月10日~9月12日)

 上野の不忍池の東畔で、4年半にわたって観音像の展示をおこなってきた「びわ湖長浜KANNON HOUSE」が閉館して半年あまり。その後継施設が日本橋にオープンしたという情報を得た。

観光情報サイト「長浜・米原を楽しむ」(2021/4/5)記事
この度、びわ湖長浜KANNON HOUSEに引き続き、長浜市の観音像とその背景にある長浜の祈りの文化を首都圏の方にお届けするため、令和3年7月~令和4年2月までの約8か月間、東京日本橋にて「東京長浜観音堂」を開設することとなりました。約2か月交代で、長浜市から観音像1躯にお出ましいただきます。

 日本橋なら私の自宅からお散歩圏内なので、いつでも行けると思っていたら、会期末が近くなってしまった。慌てて行ってみたら、ゴルフショップのあるビルの4階で、え、ほんとにここ?と不安を感じながら、エレベーターで4階に上がる。

 フロアの1室、開け放たれたドアを覗くと、「KANNON HOUSE」の内装がそのまま再利用されており(やや手狭)、観音さまがいらっしゃった。こちらは長浜市南郷町の八坂神社境内観音堂に伝わった聖観音立像で、現在は自治会の集会所で管理されているとのこと。受付の女性の方が、立て板の水の解説をしてくださった。

 ところどころ金箔の痕跡が粉のように残る。また右手に蓮のつぼみを持ち、左手を添えるポーズは、比叡山の横川中堂の聖観音と同じであるとのこと。調べてみたら、確かにそうだ。

 胸の正面に観音を表す梵字が刻まれているのが珍しい。修理のために魂を抜き、再び魂を入れたときに刻んだものではないかとおっしゃっていた。背面には、修理関係者の人名等が大きな文字で墨書されていたが、うまく写真に撮れなかった。残念。

 「学芸員の方ですか?」とお尋ねしたら「そうです。専門は仏像ではないですけど」とのこと。長浜市からの派遣で、2週間、ホテルに泊まり込みなのだそうだ。以前の「KANNON HOUSE」でもスタッフの方が少し案内をしてくれることがあったが、学芸員という感じではなかったように思う。展示された仏像を見るだけでなく、地元の学芸員の方とお話できるのはとても貴重でありがたい。

 9月15日からは安念寺のいも観音さん(2躯)がお出ましになるそうで「次の学芸員は仏像が専門です!」とおっしゃっていた。次回も忘れずに見に行こう!

寺社NOWオンライン:お江戸日本橋に湖北「観音の里」のホトケさまがお出ましに!(2021/9/3)

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美しい日常の再発見/前川千帆展+江戸絵画と笑おう(千葉市美術館)

2021-09-06 19:35:23 | 行ったもの(美術館・見仏)

千葉市美術館 企画展『平木コレクションによる前川千帆展』(2021年7月13日~9月20日)

 前川千帆(まえかわせんぱん、1888-1960)は、恩地孝四郎・平塚運一とともに「御三家」と称された、近代日本を代表する創作版画家だという。実は全く知らなくて、この展覧会も見に来る予定はなかったのだが、『江戸絵画と笑おう』と共通チケットになっていたので、やむなく(?)見ることになってしまった。浮世絵コレクションで知られる平木浮世絵財団の所蔵品を中心に、約350点の作品(展示替えあり)から前川千帆の版業を総覧する企画展である。

 千帆は京都生まれ。洋画を学び、雑誌『ホトトギス』等に水彩や墨画の挿絵を描いている。やがて東京パック社や読売新聞社に入り、漫画家として活躍する。昭和初期の新聞(よみうり少年新聞)が珍しく、紙面いっぱいに多色刷のマンガを掲載しており、コマ割りは単調だが、クローズアップとズームアウトの切り替えなど、けっこう映画的な表現が用いられているのを興味深く眺めた。戦後に活躍する漫画家たちは、こういうのを読んで育ったのかな。なお千帆は、大正年間に現存最古の国産アニメーション『なまくら刀』の制作にもかかわっている。会場では小さなタブレットを壁に設置して、このアニメーションを流していた。

 やがて版画に専念するようになり、都市風俗や人物、温泉風景、東北の素朴な少女たちなどを好んで描いた。今年は、吉田博や笠松紫浪など、版画でここまで繊細な表現ができるのか?!と唸るような、超絶技巧の作品をずいぶん見たが、千帆の作品は、むしろ「版画ならでは」の魅力を最大限に活かしているように思う。単純化・抽象化された色と形が、素朴で力強く、時にモダンで、とてもよい。

 特に感銘を受けたのは、戦時中、疎開先で制作を始め、晩年の千帆のライフワークとなった版画帖『閑中閑本』というシリーズ。文庫本くらいの折本で、各冊「お菓子」「温泉」「野の花」などのテーマを設定し、木版多色刷の絵と短文を集めたもの。愛好者に限定頒布していたようだ。作者と作品の享受者たちは、美しいものや楽しいことの思い出を共有することで、戦争というつらい時期を乗り越えようとしていたのだと思う。コロナ禍の現在の、メンタルケアにも通じるものがある。

 会場には『閑中閑本』の1冊「神籤吉凶帖」(復刻版?)が台上に置かれていて、使い捨てビニール手袋を装着の上、手に取って、めくってみることが許されていた(担当学芸員の私物の由。ありがとうございます)。

千葉市美術館 コレクション展『江戸絵画と笑おう-明治の戯画も大活躍!』(2021年7月13日~9月20日)

 同館所蔵・寄託品の中から、「笑い」をキーワードとして、現代の私たちにも自然に楽しめる、親しみやすい作品を集めたコレクション展。作品の数では、明治の錦絵がけっこう多いが、思想というか趣向としては、江戸の続きと考えてよいのだろう。

 江戸の錦絵では、八代目団十郎の死絵シリーズが面白かった。女性ファンたちの阿鼻叫喚ぶりが突き放して戯画化されている。不謹慎な話だけど、これくらいで眉をひそめていては、江戸の戯画は楽しめない。明治の錦絵では、歌川国利の『ねこの世界』『鼠の戯』『しん板 けだもの商人尽』など。これらはセリフが読み解けないと面白味が分からないので、ちゃんと翻刻パネルが容易されていてありがたかった。

 錦絵以外では、芦雪の『花鳥虫獣図巻』。色が美しく、芦雪の描く鳥の顔が好き。無款の『仔犬之図』(紙本墨画淡彩、江戸中期、楠原コレクション)は、ちょっと朝鮮絵画っぽく見えた。仙厓の『鍾馗図』は、鍾馗が刀のフルスイングで小鬼を一刀両断にしたところ。マンガみたいな馬鹿馬鹿しさに吹き出す。

 そして私がこの展覧会を見に来た目的は、伝・三代将軍徳川家光の『墨絵 子供遊図』(草月会寄託)。11人の子供(?)が描かれていて、10人は一列に並んでおり、いちおう子供たちの体形や顔立ちは描き分けている様子。1人は少し離れて仲間のほうを振り向いている。何だろう?「かごめかごめ」か「だるまさんがころんだ」の最中だろうか。それにしても料紙に対して、この絵の配置(左下隅に寄り過ぎ+空白広すぎ)が明らかにおかしい。絵師としての家光、新作が発掘されるたびに驚きの連続で、すっかり目が離せなくなってしまった。

 常設展示室の『千葉市美術館コレクション選』(2021年8月3日~9月5日)も覗いていく。江戸絵画から現代美術まであり、無款『風流祭礼図屏風』6曲1隻(寛永期)と『草鹿図屏風』6曲1隻(寛文期)が気になった。

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江戸時代の天文資料(大阪市立科学館オンライン講座)お試し視聴

2021-09-04 19:03:36 | 行ったもの2(講演・公演)

大阪市立科学館 連続オンライン講座 第1回『科学館にある江戸時代の天文資料を詳しく紹介』(講師:嘉数次人、2021年9月4日、10:30~)

 大阪市立科学館では、学芸員が、それぞれの専門分野や同館の資料、あるいはタイムリーな話題などについて話す連続オンライン講座(計11回)を開講中である。コロナ禍で一気に増えたオンラインイベント、あまり高額なものは敬遠していたのだが、これは1回300円と格安なので、お試しに視聴してみた。

 はじめに紹介されたのは、渋川春海(1639-1715)の『天文分野之図』。縦は1メートルを超える一枚の摺り物である。科学館所蔵本は掛軸状に表装されており、ふだんは館内に常設展示されているそうだ。講義では、平台上に広げた資料を講師(?)がハンディカメラで撮影しながら解説してくれた。細かい文字まで接写で見ることができたのはありがたいが、微妙にカメラが揺れるので、ちょっと酔いそうになった。

 摺り物の上部には、大きな円形の星図が描かれている。その周囲に方角を示す十二支と日本の国名(令制国)が書かれていることには初めて気づいた。子(北)に越前や若狭、午(南)に紀伊や和泉という記載から分かるように、中心は京都(機内)である。もともと中国では、天を東西南北と中央の五つに分けて(五行思想だ!)地上の地方と対応させ、この星の付近で流れ星があるとこの地方で何があるというような、分野説に基づく天文占(てんもんせん)が行われてきた。春海は、これを日本の国土にあてはめたのである。だから星図のタイトルが『天文分野之図』なのか。

 講師によれば、古代の天文学は「暦学」と「天文占」から成るそうだが、春海が中国の暦を調整して日本に適した『貞享暦』を作り出したことと、日本の天文占に必要な『天文分野之図』を作ったことに、共通する問題意識があることは理解できた。

 天文占は春海のライフワークで、『天文瓊統』では、ヨーロッパや太平洋地域など、世界の地方を分野配当しているそうだ。また『天文成象』所載の星図には、中国由来の星座に加えて、春海が独自に創作した星座61個(星数308個)が掲載されている。この日の講義では、『天文成象』の星図を引用した『天経或問註解』の版本を映しながらの解説があった。織女星の近くに「天蚕」を置くなど、中国星座にちなむものもあるが、「大宰府」など、日本の社会・官僚制度に添ったものもある。私は、むかし国立天文台で『天文成象』(いや『改正天文図説』かもしれない?)を見たことがあって、この「大宰府」の文字を不思議に思ったことを思い出した。

 講義の後半は、優れた望遠鏡を多数製作し、天文知識の普及にも貢献した岩橋善兵衛(1756-1811)の紹介。このひとの名前は知らなかった。大阪市貝塚の商人なのだな。岩橋の『平天儀』は、台紙に4枚の紙の円盤を重ね、ぐるぐる回すことで、一年間の特定の日・特定の場所(経度)で見える星座・月の満ち欠け・潮の満ち干などが分かる仕掛けになっている。また『平天儀図解』には、この円盤の使い方の解説のほか、様々な天文の知識がまとめられている。漢字仮名交じりで振り仮名の多い文章ので、漢文が基本の春海の著作に比べれば、ずっと読みやすそうだ。どのくらいの部数が、どのような階層の人々(裕福な町人とか?)に読まれていたのか、気になった。

 江戸の天文学には、むかしから細々と関心を持ち続けているので、久しぶりに関連の話が聞けて楽しかった。また、ネットで少し検索してみたら、様々な資料や研究論文が、むかしよりずっと手に入りやすくなっていたのも嬉しく思った。

天文分野之図(国立天文台)…画像と解説

星空に親しむ:宇宙探検ガイド第1回/国立天文台 高梨直紘…スライドの17枚目に中国13世紀の淳祐天文図(蘇州天文図)の翻刻画像あり。星図のいちばん外枠に方位(子、丑、寅など)と地名らしきもの(揚州、幽州、豫州など)が見える。そのほかに呉、燕、宋などとあるのも旧国名(地方名)か。星紀、析木、大火というのは何だろう?と思ったら「十二次」と言って、天球を天の赤道帯にそって西から東に十二等分したものだそうだ。

江戸時代の星座/嘉数次人(天文教育2009年7月号)…本日の講師の論文。渋川春海の創作星座に関する解説あり。

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名家の組織改革/三野村利左衛門と益田孝(森田貴子)

2021-09-01 17:00:04 | 読んだもの(書籍)

〇森田貴子『三野村利左衛門と益田孝:三井財閥の礎を築いた人びと』(日本史リブレット 人) 山川出版社 2011.11

 今年の大河ドラマ『青天を衝け』を面白く見ている。これまでのところ、だいたい知っている登場人物ばかりだったが、先日8月22日に登場した三野村利左衛門は初めて聞く名前だった。演じるのがイッセー尾形さんだし、これは重要な役どころだろうと思って気になっていたら、書店で本書が目について買ってしまった。幕末から明治にかけて、三井発展の基礎をつくった三野村利左衛門と益田孝の二人を紹介したものである。

 そもそも三井の家祖は越後守高安といい、近江国六角佐々木氏の家臣だったが、長男の高俊が伊勢松坂で商いを始め、その長男の俊次は江戸で小間物店を開いた。高俊の四男・高利も兄の店に入り、商売を繁盛させていった。呉服店と両替店を開き「現金掛値なし」の商売を始めたのも高利である。高利の子どもたちは、財産を一族の共有として「同苗(同じ苗字=三井家)一致」の原則のもとに維持する家法を定めた。私は三井記念美術館で三井家の美術コレクションを何度か見ているので、ここに登場する人々の名前には少し親しみがあった。

 さて、三野村利左衛門(1843-1914)が三井に入ったのは、慶応2/1866年のことである。それ以前の経歴には諸説あり、不明な点が多いそうだ。幕末の三井は、幕府から次々に御用金を命じられ、取り締り不足・突合せ不足などで多額の滞り金や損失を生じていた。そこで新たに公金請払御用などを扱う御用所を設け、責任者として三野村を招いたのである。三井は幕府側と倒幕派のどちらに与するか迷っていたが、最終的に倒幕派に加勢し、軍資金と兵糧米の調達を担い、維新政府の財政・金融機構の中に基盤を固めていった。ただし最初から三井の地位が盤石だったわけではなく、小野組、島田組などライバルの豪商・両替商が破産して姿を消す中で、三井は危ない橋を渡り切り、明治9/1876年には日本最初の私立銀行である三井銀行を開業する。

 三井は、政府の業務を営業の中心とするため、江戸時代からの組織の改組に取り組んだ。はじめに呉服業の分離(三越の誕生)。次に京都の大元方(おおもとかた:三井経営の最高機関)に代わる東京大元方の新設。そして資産と負債の状況を明らかにし、三井組の資財を三井家から切り離して三井組の所有とした。現代の企業のあり方からすれば当たり前の姿だが、伝統ある旧組織の改組は、新組織を一から作る以上に困難が大きかったものと想像する。三野村没後に三井家同苗の不満が噴出し、揺り戻しもあったが、改革は無にならなかった。「この改革によってこそ、三井は以後の経済界における確固たる地位と発展の基礎を築くことができた」と著者は評価している。三野村が無学で、文字も知らなかった(ほんとか?)というエピソードも興味深い。

 益田孝(1848-1938)は、明治9/1876年に三野村に説得されて三井に入り、「海外海内を論ぜず、諸商品を売捌き、及び買取して手数料を得る」ために新たに設立された三井物産の経営を全面的に委託された。同社は三池炭の販売を一手に担い、のちに三池炭鉱(炭礦)の払い下げを受けた。また日本において機械制大工場を発展させた紡績業の原料となる綿花(棉花)の輸入、紡績機械の輸入、生糸・綿糸・綿布の輸出に重要な役割を占めた。

 明治20年代から明治末年にかけて、三井ではさらなる組織改革の検討が進む。益田がロスチャイルド家など欧米の旧家を視察し、名家を長く維持する方法について意見を求めているのが興味深い。その結果、営業組織は「有限責任株式会社」とし「定款」を定め「営業は総て専門に依り」「業務の執行を若干の重役に委任」するなど、もっともな提言を行っている。しかし現代でも、こうしたことが徹底されていない同族経営企業は多いんじゃないかな…と思う。

 益田の意見書に基づき、明治42/1909年に三井合名会社が設立され、三井家同族11人が社員となって共有財産を所有し、傘下の事業を特殊会社として統括することになった。同時に三井銀行と三井物産は、三井家が出資する株式会社となった。三井家の家政と事業の分離、資本の所有と経営の分離が達成されたわけである。

 企業経営に全く不案内な私にも読める、興味深い三井の歴史だった。このあと、昭和に入ると財閥化とその解体という激動が待っているわけだが、それはまた別の機会に読んでみたい。

※追記:三野村が興した会社の事務所だった「三野村ビル」が清澄白河に残っているらしい。近所なので、そのうち見てこよう(参考:江東おでかけ情報局)。

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