見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

変わりゆく隣国/韓国愛憎(木村幹)

2022-02-13 21:39:55 | 読んだもの(書籍)

〇木村幹『韓国愛憎:激変する隣国と私の30年』(中公新書) 中央公論新社 2022.1

 木村幹先生は韓国現代政治の研究者だが、ツイッターでは、韓国情報に加えて、院生指導の苦労とか趣味の輪行の様子とか、いろいろつぶやいてくださるのが楽しいので、私は長年フォローしている。しかし著書を読むのは、ご本人が「自叙伝もどき」とおっしゃる本書が初めてである。

 本書は、1966年、在日コリアンの暮らす街である大阪府河内市(現・東大阪市)で著者が生まれたところから始まる。やがて京大法学部に進んだ著者は、大学教員を目指すことに決め、特に思い入れもなく、消去法的に韓国を研究対象に選ぶ。韓国留学、米国留学、愛媛大学等を経て神戸大学に着任。政治学の新しい研究スタイル「政治科学」との葛藤に悩んだりする。

 2002年から日韓歴史共同研究に参加。これは同年のサッカーワールドカップ日韓共同開催を好機として、両国の友好関係強化のため、日本・小泉純一郎首相と韓国・金大中大統領が立ち上げた国家間プロジェクトである。当時、私は日韓関係に興味を持ち始めていたので、このプロジェクトは覚えている。結局、目に見える成果はなしに終わってしまったように思っていたが、著者の回想によれば、昼、公式の研究会では対立した研究者たちも、夜の懇親会では打ち解けているように見えたというから、研究者間の交流には意味があったと言ってよいのだろう。ちなみに私は無関係だが、この時期は韓流ブーム(2003年~)も起きていた。

 日韓歴史共同研究の第1期は2005年に終了し、2007年から第2期が始まる。日韓関係は、2005年頃から、竹島問題や『マンガ嫌韓流』の影響で急速に悪化していた。韓国・廬武鉉政権、日本・安倍政権は、それぞれ国内での歴史の見直しを積極的に推し進め、相手国に厳しい態度で臨もうとした。そのため、第2期の委員は、多くが両国の歴史認識を代弁する傾向となり、議論も不毛な衝突にならざるを得なかったという。木村先生には「お疲れ様でした」と申し上げるしかない。

 2000年代初め、日本社会には日韓関係について好意的な雰囲気があった。これは全くそのとおりというか、私などは、90年代末から2000年代に初めて韓国という隣国に関心を持った。私事になるが、職場の海外研修に応募して、公費出張で初めて韓国の地を踏んだのが99年(韓国の大学図書館と大学事務を訪ねてまわった)、それから2003年と2008年には友人と韓国古蹟めぐり旅行にも出かけた。私は90年代半ばまで、韓国の歴史も、近現代の複雑な日韓関係も全く知らなかったので、この時期の楽観的な日韓友好志向には、コロリと騙されていた。しかし、著者の言うとおり、98年の小渕恵三と金大中による「日韓パートナーシップ宣言」は、潜在的な問題を承知の上で「臭いものに蓋」をしたとも言える。こうやって手際よく庶民を騙してくれる「食えない政治家」は必要な存在だ。

 著者は2001年の夏に高麗大学に短期留学し、90年代末のアジア通貨危機以降の韓国が、グローバル化への適応を果たし、急速に日本と異なる社会になりつつあることを実感する。それは、韓国社会において、かつての成長モデルだった日本の存在感が急速に失われていることを意味した。グローバル化とは世界各国の地域の枠を超えてより遠い国々との関係を深めることである。交流が世界規模に拡大すれば、地域的な協力の重要性は必然的に小さくなる。後半は、民主党政権の「東アジア共同体構想」が周回遅れだったことを批判した箇所だが、全く首肯せざるを得ない。

 2010年代、韓国はますます自信を深める。経済的に大きな自信を得たことによって、韓国は歴史認識問題を克服していくかもしれないと著者は考えたが、それは当たらなかった。2010年の韓国併合100周年を巧みに乗り切ったかに見えた李明博政権の対日政策転換によって、日韓関係は急速に悪化する。しかし興味深いのは、影響を受けたのは日本の世論だけという指摘である。つまり、すでに日本の存在感が希薄な韓国では、対日政策が政権の支持率を左右することはないので、政権としても、あまり対日関係の正常化に熱心になれないのだろう。

 いま、日本の多くの若者が、韓国のドラマや音楽、ファッションをふつうに身近なものと感じている。30年前には想像もできなかった関係性だ。それなのに政治の世界(インターネット世論を含む)では、日韓両国とも古い誇りにとりつかれた人たちが、幻想の中の相手と戦っているように思われる。このめんどくさい状況、即座に解消することは難しいだろうが、少しずつ後者の人たちの声が小さくなっていくことを願う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東西の古代/古代中国・オリエントの美術 リターンズ(永青文庫)

2022-02-11 20:28:05 | 行ったもの(美術館・見仏)

永青文庫 冬季展『古代中国・オリエントの美術 リターンズ-国宝“細川ミラー“期間限定公開-』(2021年12月18日~2022年2月13日)

 2020年の早春展で、新型コロナの影響で途中終了となった『古代中国・オリエントの美術』展の再開催だという。2020年の展覧会は、2か月の会期が半月短縮されてしまったが、まあまあ開催期間を保てたし、絶対行くつもりでチェックしていた展覧会ではなかったので、私の「行かれなかった展覧会」には記録していなかった。公式ホームページに残っている出品リストを見ると、主要な展示品は今回とほぼ同じ。ただし2020年には、今回出品されてない支那趣味の絵画や高麗茶碗が出ていたようである。

 私は、2020年の展覧会は見逃したが、永青文庫には何度も来ているので、4階展示室の中国関係は見覚えのあるものが多かった。細川護立のコレクションには、唐三彩や石仏にも優品が多数あるはずだが、今回は、古代(殷周~漢)の金属製品がほとんどで、同じ時代の灰陶や玉器も少し出ていた。古代の金属製品には、当然、剣や矛など武器が多いのだが、どれも美しい。『動物文鞘付銅剣』は優美な透かし文様の鞘に剣を収める。実践に使えるとは思えないので、たぶん副葬品や威儀を正すために使われたのだろう。

 「細川ミラー」と呼ばれる『金銀錯狩猟文鏡』(戦国時代)は展示替えで見ることができなかったが、『金彩鳥獣雲文銅盤』(漢~新時代)が出ていた。この2件、日本の国宝に指定されているのだな。後者は、『金銀象嵌鳥獣文菅金具』(前漢時代、重美)とともに、細川護立がパリで買い求めたものだ。この時代、中国美術の優品は欧州で探すものだったというのが感慨深い。

 『銀人立像』は、2013年の『古代中国の名宝』展で見たもの。このとき『銅製馬車』も見ているのだな。馬車には御者のほかに二人の人物が乗っている。大きさがずいぶん違うのは、主人と従者か、大人と子供か。馬車の作りが精巧で、車輪が実際に回りそうに見えた。『三人将棋盤』は、2018年の『細川家と中国陶磁』展で見た。これ、中国の古装ドラマ(ファンタジーも可)で、遊んでいるところを映像化してくれないかなあ。

 今回印象に残ったのは『銅製柄香炉』(前漢時代)で、丸く盛り上がったかたちの透かし彫りの香炉。前方に短い突起、後方に尻尾のような短くて先が平たい柄が付いている。短い脚は三本。全体としてぶんぶく茶釜のタヌキみたいな形態である。詳しい用途は不明だそうだ。

 3階はオリエント(西アジア)の美術。エジプトのファイアンス(陶磁器の一種)製の容器片は、素朴な文様が絵唐津を思わせる。古代ガラスは、まだ工芸として成熟していない野性味が好きなのだが、『ゴールドバンドガラス碗』(東地中海沿岸域、前2~前1世紀)には驚いた。皿に近い浅い碗で、内側は透明に紫色ガラスの網目模様、外側は紫色に金箔の太いストライプ柄になっている。とてもモダンなセンス。

 イランの人物文陶器はミナイ手と呼ばれる。ミナイは、ペルシア語でエナメル、色絵を意味し、白地に色鮮やかな絵の付いた中国陶磁器にあこがれて、イスラム世界が発明した色絵陶器であるといわれているそうだ。私は、やや時代の新しい(17世紀)少ない色数を効果的に使った民画ふうのタイルが気に入った。日本民藝館のコレクションにあっても違和感がなさそうだと思った。

 珍品として、小さなヘルマアフロディーテ(両性具有)像あり。衣をはだけて片方の乳房を出し、裾をたくしあげて、子供のような男性の性器を見せる。イタリア(2~3世紀)と注記がついていたが、ローマ帝国時代の遺物である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

女文字による動員/「暮し」のファシズム(大塚英志)

2022-02-07 22:53:16 | 読んだもの(書籍)

〇大塚英志『「暮し」のファシズム:戦争は「新しい生活様式」の顔をしてやってきた』(筑摩選書) 筑摩書房 2021.3

 コロナ禍の中で広まった「新しい生活様式」という語の響きに、著者は不快な既視感があったという。日々の暮らしのあり方について為政者が「新しさ」を求め、社会全体がそれに積極的に従う様が、かつての戦時下、より具体的には、1940(昭和15)年、第二次近衛内閣が提唱した「新体制」の一部、「新生活体制」を想起させるというのだ。「新体制」とは、全面戦争に対応し得る国家体制構築のため、政治、経済、教育、文化など「国民生活」の全面的な更新を目論むものだった。国民の「内面」の動員が意図されていたと言ってもよい。そこで用いられたのは、勇ましい「男文字」のプロパガンダばかりではない。本書は、我々の「日常」や「生活」が「女文字」のプロパガンダによって巧妙に作り替えられていった様子を検証する。具体例としては、花森安治の仕事、太宰治の小説『女生徒』、詩人・尾崎喜八が描いた「隣組」、新聞まんが、写真家・堀野正雄などが、取り上げられている。

 私が最も興味深く読んだのは、太宰治『女生徒』の章だ。この女性一人称小説は、有明淑(しず)という実在の女性が、太宰に送ってきた日記を下敷きに書かれたことが分かっている(私は初めて知った)。本書は、有明の日記(2000年に公刊)の原文と小説を比較し、太宰による「姑息」な加筆・修正を明らかにする。明瞭な政治意識と批判精神を持ち、「道徳」や「社会」による同調圧力を嫌悪し、「私」の感じ方を大事にしようとしていた有明の内面を、太宰は、ものの見事に消し去っているのだ。小説の中の「女生徒」は、自分の未熟さに起因する不安を述べたあと、「ただ一言、右へ行け、左へ行け、と、ただ一言、権威をもって指で示してくれたほうが、どんなに有難いかわからない」と表明する。これをどう読むべきか?

 小説であると分かってはいても、私は太宰の「捏造」に強い嫌悪と怒りを感じた。「個人主義」の否定は、時代の要請だったというが、それにしても翼賛体制に対して、見事な忠誠ぶりである。本書は、太宰の女性一人称小説は、転向小説であり、翼賛小説であると解説している。

 男性による「女文字」(女性の好み、感じ方を偽装したもの)のプロパガンダの手練れといえば、花森安治だろう。私は、母の愛読誌だった『暮しの手帖』で彼の仕事に親しんだ世代だが、花森は、戦時下の婦人雑誌『婦人の生活』でも、積極的にさまざまな工夫をすることで、「都会的」で「インテリ」な「ていねいなくらし」が実現することを説いている。ううむ、この「国策」の魅力に抗うのは、分かりやすい「男文字」のプロパガンダより難しいぞ…と感じた。花森の戯曲「明るい町 強い町」も同じだ。暗い顔をした人々を、明るい顔に変えるために奔走するこびとたち。「楽しい歌」に動かされなかった「怠け者」も、戦場の現実を突きつけられることによって、態度を豹変させる。これは、かなり怖いアレゴリーだが、いまの日本でも、同様の事態がじわじわ起きているように思う。また、花森が「女文字」だけでなく、「男文字」のプロパガンダの巧者であったことも、あらためて記憶しておきたい。

 新聞まんがについては、1930年代後半の総動員体制、翼賛体制の下で、「家族」と「町内」を舞台とする様式が定型化したことが分かっているという(中国の日本まんが研究家・徐園氏の研究)。転機となったのは、新日本漫画協会が集団で制作した「翼賛一家」(!)という作品である。面白かったのは、「いささか頼りない空回りする父親」「呑気で憎めない男性像」というキャラクターが、この時代に頻出・定着し、戦後の「サザエさん」等に受け継がれていくという図式だ。これもいろいろ深読みができる。

 写真家・堀野正雄は、制服姿の女子学生がガスマスクをつけて行進する写真(時事新報・写真ニュース)を残している。星野はアヴァンギャルドあるいはプロレタリア芸術運動と戦時プロパガンダの双方を生きた。芸術運動とプロパガンダというのも興味深いテーマだが、ここでは、女学生の制服が、総動員体制・翼賛体制の象徴であるとともに、女性たちの「自由」と「個性」、すなわち「国策」への抵抗の場でもあったという指摘が重要だと思う。

 以上、「ていねいなくらし」の顔をしてやってくる「内面」の動員こそ、最も抵抗しにくいものだと思った。なるべくずぼらで怠惰でいることが、一番の抵抗かもしれない。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

葬儀私記

2022-02-06 15:06:04 | 日常生活

 2022年2月6日に92歳の父が永眠した。その前後のことを書き留めておく。

 父と母は、2017年5月から老人ホームに入居し、2人1室で暮らしていた。長年、糖尿病で手術を繰り返してきた父に比べると、母は健康体だったが、2015年2月に脳梗塞で倒れてから復調せず、生活に支障をきたすようになってきたため、2人で老人ホームに入ったのである。その後、2人とも徐々に老化が進行していた。

 父はこの1年ほど車椅子生活だったが、昨年末にはリハビリの開始に意欲を示していた。しかしまた体調を崩したため、年末年始は病院で過ごすことになった。ところが病院の治療が合わず、年明け、入院前より病状が悪化した状態で施設に戻ってくることになった。1月に私は2回面会に行っている。

 1/15(土)には弟と2人でかかりつけ医師の話を聞き、いつ何があってもおかしくないですねえという予告を受けた。この日は父母の居室に入ることができたが、翌週から、東京都に蔓延防止措置が適用されたため、1/22(土)は面会室で会うことしかできなかった。20分ほどの面会だったが、父からはスマホの使い方について、いくつも質問を受けた。頭が朦朧として、使い方が分からなくなっているらしかった。結局、父から貰ったメールは、1/5(水)入院先からの「退院してお母さんと一緒に暮らしたい」という訴えが最後になった。

 1/29(土)は差入れだけ届け、2/5(土)の面会の予約を入れていた。

 2/3(木)の仕事帰り、施設から「土曜日では間に合わないかもしれない。今日会いにきたほうがいい」という電話があった。慌てて駆けつけると、父はベッドに半身を起こした状態で、北京五輪のテレビを見ていた(正確にいうと音だけ聞いていた)。あれが欲しいこれが食べたいというので、弟と2人で近所のスーパーで調達してきて差し入れた。缶ビールの一番小さいものを美味そうに飲んでいた。

 2/5(土)13:30に弟とともに施設を訪問。父を診察した医師から「あと1週間くらいでしょう」との説明を聞く。父は終始上機嫌で、学生時代の思い出を語り、二高の寮歌や「荒城の月」を歌っていた。呼吸を助けるため、酸素の吸入器をつけているので、気分がハイになるのだと医師が言っていた。

 2/6(日)迷いながら、ふらふら街へ遊びに出ていた私の携帯に、12:00頃、施設から「呼吸がなくなりそう」という連絡が来た。江戸川橋のあたりにいたので、1時間ほどで駆けつけると、すでに弟が来ていて、父はベッドで眠っていた。呼吸は安定しており、口元が動いているのが分かった。弟と交代で昼食をとることし、まず弟が出かけ、次に私も駅前のラーメン屋で食べて戻ってきた。弟が「途中だった洗濯を片づけてくる」というので、私はベッドの母と会話しながら父の様子を見ていた。

 15:00頃、スタッフの方が母の排泄ケア(パット交換)に来てくれた。父のベッドをそっと動かし、壁際のクローゼットから替えのパットを取り出し、母の服を脱がせるのを、私は少し離れて見ていた。と、スタッフの方が、父の口元の動きが止まっていることに気づく。顔を近づけて、名前を呼んでみたが反応がないので、母のケアを中断し、看護師さんを呼んでくることになった。私は弟に電話連絡。

 そして看護師さんによって呼吸停止が確認され、酸素吸入器のチューブが取り外された。やがて弟が戻ってくる。それから医師が来てくれて、父の死亡を確認した。施設のスタッフの方たちが、ジャージ姿だった父を、私と弟が選んだ服に着替えさせ、身ぎれいにしてくれた。お花も届けられた。

 施設で紹介してもらった葬儀社の方が、1~2時間後に来てくれることになったので、弟は洗濯の続きのため、自宅に戻り、私は父の遺体の隣りで、母と会話しながらしばらく過ごした。スタッフの方々が次々に部屋に来て、父にお別れをしてくれた。たぶん父が晩年を自宅で過ごしていたら、好んで近所づきあいをするタイプではないので、こんなに多くの人からお別れを言ってはもらえなかっただろう。

 18:00頃、葬儀社の方が来て、段取りを決めた。火曜が友引きなので、水曜に火葬にすることになり、父の遺体は葬儀社さんの安置所で預かってもらうことになり、車で運び出されていった。このときも施設のみなさんに送ってもらえて、果報なことだと思った。

 2/9(水)職場には理由を告げずに有休をとった。14:00に落合斎場へ。私と弟の2人だけで見送った。棺にはお花のほか、母の最近の写真と、若い頃の2人の写真を入れた。火葬は1時間弱で終わり、2人だけで収骨するのは大変だなと思っていたが、立会いの方の指示で、大きな骨をひとつだけ、弟と2人で拾ったあとは、全て斎場の方がやってくれた。父は体が大きい人だったので、骨の量も多く、骨壺に収まり切らないのではないかとハラハラしたが、なんとか収めてくれた。

 そして私が父の骨壺を抱き、弟の車に乗って実家へ戻った。いま父の骨壺は実家の仏壇の前に置かれている。三月最終週には墓に収める予定である。

 以上、他人に読んでもらう内容ではないが、ここに残しておくのが、後日の自分のために一番よいと思われるので、この場を使用する。(2/27記)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紅梅白梅2022

2022-02-06 15:04:00 | なごみ写真帖

いい天気。

永青文庫に行く途中、神田川沿いの江戸川公園で見た梅。満開のようだけれど、まだまだ蕾がたくさんある。

いま住んでいる近所は、桜は豊富だが、見応えのある梅は少ない。やっぱり梅は、山の手のものかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

少女たちの時間/中華ドラマ『八角亭謎霧』

2022-02-04 19:59:17 | 見たもの(Webサイト・TV)

〇『八角亭謎霧』全12集(愛奇藝、2021)

 2020年に『隠秘的角落』『沈黙的真相』などで話題をさらった「愛奇藝・迷霧劇場」シリーズの新作であるが、残念ながら、出来はいまひとつだった。舞台は江南地方の小鎮・紹武(ロケ地は紹興)。女子高生の玄念玫は、チンピラの朱勝輝につきまとわれていた。あるとき、朱勝輝の遺体が運河で発見される。

 玄念玫は祖母と両親の四人暮らし。父親の玄梁には3人の妹がいた。すぐ下の妹・玄敏は、玄梁とも親しい刑事の袁飛と結婚している。その下の双子の姉妹のうち、妹の玄珍は、18歳のとき何者かに殺害され、公園にある八角亭近くの水辺で遺体が見つかった。19年経っても犯人は不明のままである。事件後、姉の玄珠は家を出て、遠くの都会で暮らしていた。玄梁は、妹を守れなかった自責の念に苛まれ、次第に玄珍そっくりに育っていく娘の念玫を過剰に束縛していた。

 念玫の祖母が倒れ、入院したのをきっかけに、玄珠が帰宅する。念玫は叔母から、自分とそっくりだったという玄珍についての話を聞く。美人で、誰からも愛されることが当然と思っていた玄珍の存在は、地味で控えめな玄珠にとって、好ましい思い出ばかりではなかった。高校時代、玄珠は親しくなった男子の影響を受けて崑劇を習い始めたが、それを知った玄珍は、自分も同じ劇団に入門し、瞬く間に劇団長の寵愛を奪ってしまう。玄珍が殺害されたのは、それからまもなくのことだった。

 【ネタバレ】19年前の事件では、崑劇団の主宰者である丁団長が玄珍に異常な執着を抱き、誘拐して殺害したことが判明する。丁団長の妻の周亜梅が遺体遺棄を手伝っていた。丁団長は、玄珍そっくりの念玫を見かけて、再び魅入られ、彼女につきまとっていた朱勝輝を殺害したのだった。

 あらすじは以上のとおりである。19年前の事件の目撃証言で、容疑者が男性か女性かはっきりしなかったのは、丁団長が女装愛好者だったためとか、序盤のミスリードを誘う、念玫の担任で写真オタクの田老師とか、細かい仕掛けはあるのだが、あまり感心しない。すでに頭脳の働きが明晰でない丁団長の自白を引き出すため、念玫が玄珍の扮装をしてオトリになるというのも、警察が考える策としては現実的でない(ドラマの中でも批判されているが)。

 本作は、ミステリーとしては評価できないが、ミステリー風の味付けをした心理小説だと思えば許せる面もある。見た目も性格も正反対の双子姉妹、玄珠と玄珍の葛藤の描き方には、古い少女マンガの佳作、たとえば萩尾望都を思わせる味わいがあった。生き残った玄珠は、妹からあれほど残酷な仕打ちを受けたにもかかわらず、姉として妹を守れなかったことを悔やんでいる。ずっと玄珍と比べられてきた念玫は、自分も18歳で死ぬ運命ではないかと考えていたが、玄珠は、たとえ外見がそっくりでも人間の内面はひとりひとり違う、と語ってきかせる。念玫は叔母の言葉に勇気づけられ、成長期のアイデンティティの不安を抜け出す。また、他人に愛されることを諦めていた節のある玄珠も、最後は、自分の生活を立て直そうと旅立つ。

 念玫と玄珍の二役を演じた米拉(Mira)ちゃんは、この年頃の少女らしい自然な表情がよかった。少女時代の玄珠を演じた謝卓妮ちゃんも好き。ああ、どこかで見たことがあると思ったら『開封府』の健気な小青女だ。謎解きの主役は袁刑事(段奕宏)のはずだが、あまり見せ場はなく、新人刑事の劉新力(白宇帆)のほうが印象に残る。水路に囲まれた江南古鎮の風情と、崑劇の音曲は楽しめた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中世日本の原風景/荘園(伊藤俊一)

2022-02-02 18:10:43 | 読んだもの(書籍)

〇伊藤俊一『荘園:墾田永年私財法から応仁の乱まで』(中公新書) 中央公論新社 2021.9

 質量ともに読み応えのある1冊だった。中心テーマは中世の荘園だが、記述はその前史である律令国家から始まり、荘園の誕生、成長、変容、終焉まで750年余りの歴史を追っていく。

 試しに自分の理解をまとめてみる。古代日本の律令制は公地公民を原則としたが、人々が新たに農地を開発するインセンティブに欠けたため、743年に墾田私財永年法が制定され、各地に初期荘園が生まれた。9世紀後半、摂関期の朝廷は国司に権限を委譲し、国司(受領)は国内の耕地を名(みょう)に分けて有力農民の田堵(たと)に経営と納税を請け負わせた。さらに耕地の開発を奨励するため、税の減免を認めた免田を許可した結果、免田型荘園が生まれた。ここまでが中世荘園制の前史にあたる。

 10世紀後半、国衙の在庁官人に公領の徴税権を与える別名(べつみょう)の制度が導入され、役職の義務と利権を世襲する職(しき)の慣行が定着すると、地方豪族である在地領主が誕生し、在地領主から都の有力者に寄進された免田を核として、治外法権的な領域型荘園が成立する。その領主権は、本家(天皇家や摂関家)・領家(寄進を仲介した貴族)・荘官の三層構造になっていた。鳥羽上皇や後白河上皇により、八条院領や長講堂領という巨大荘園群が形成される。

 鎌倉幕府が成立すると、頼朝は御家人に与えた領地に地頭制を敷いた。地頭は荘官の年貢・公事の義務を引き継いだが、次第に怠るようになった。鎌倉時代末には、荘園領主制の重層性が解体して、一領主が一領域を支配することが一般化する。耕地は、武家が所持する武家領と貴族・寺社が所持する寺社本所領とに区分されるようになった。

 南北朝の争乱期には前線で軍勢を率いる守護の権限が拡大し、荘園支配には当地の守護の承認が必要になった。室町幕府は、守護在京制を導入することで、地方を治める守護権力の当主たちを、京都に集住する領主たちの世界に組み入れ、荘園では、土倉・禅僧・守護などに年貢収納を請け負わせる代官請負が普及した。しかし、応仁の乱によって守護在京制は解体する。一方、村人の自治による惣村が形成され、国人領主が国衆へ成長していく中で、支配の枠組みとしての荘園は地域社会から消えていった。

 以上、基本的には通史の形態だが、途中「中世荘園の世界」の章は、鎌倉時代の比較的安定した荘園の姿を多角的に描き出している。土地がどのように利用され、どのような景観が形成されていたか。どんな作物がつくられ、どんな農具が使われたか。人々はどんな社会関係の下に置かれていたか。農民以外の職人はいたか。年貢はどのくらいか。輸送手段は?市場は?などなど。標準的な社会関係や技術の進歩がある一方、意外と多様性があったことも認識した。塩や鉄を年貢とした荘園もあったのだな。こうした背景を知ることで、荘園絵図や絵巻物を見る際も、新たな面白さが加わるように思う。

 本書は社会経済史に属するのだろうが、実は政治史についての記述も詳しい。保元・平治の乱から平家政権、さらに鎌倉幕府の成立に向かうあたり、あまりに詳しいので、ちょっと違う本を読んでいるような感じがした。しかし、政治体制の変革は社会や経済に影響し、最終的に荘園制の変容に結びつくのだから、当然必要な記述である。

 一方で、政治とは無関係に社会や経済を動かす要因もある。近年、気温と降水量の変動が年単位でわかるようになり、著者によれば、気候変動と荘園の歴史は「けっこう対応する」のだそうだ。本書には、9世紀から15世紀までの気候変動グラフが掲載されており、これを眺めるだけも興味深い。たとえば13世紀の異常気象(1230年の冷夏)については、藤原定家が米の凶作に備えて庭の植木を掘り捨てて麦畑をつくらせたことが紹介されている。定家の話は明月記にあるのだろうか? 中世に生きるのは大変なことだ。

 全国的な統治権力の変遷とは別に、農民が「惣」という自治集団をつくり、領主に対する立場を強めていく過程も興味深かった。この前段として、13~14世紀、農地の量的拡大が限界に達したため、耕地化できないところに家屋を集約する集村化が進み、農作業のやりかたが変わり、農民どうしの結びつきが強くなったという。よく俗説で勤勉や協調が日本人の国民性みたいに言われるのは、これ以降の話なんだろうな。

 それから、荘園を経済基盤とする京都などの寺社が年貢の確実な収納に苦労してきたこともよく分かった。南北朝・室町時代になると、禅寺は宋の寺院制度に倣い、教学に携わる西班衆と経理・管財を担当する東班衆を置いた。五山派禅寺の東班衆は、寺外の荘園領主と契約し、その所領の代官としても活躍した。専門家集団による業務請負か! こういう古代や中世における寺社や僧侶の社会的役割は、もっと語られてもいいような気がする。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「文学」の新しい視点/明治文学の彩り(日本近代文学館)

2022-02-01 20:17:03 | 行ったもの(美術館・見仏)

日本近代文学館 冬季企画展『明治文学の彩り-口絵・挿絵の世界』(2022年1月8日~2月26日)

 展示されているのは、明治期に刊行された書籍や冊子の口絵・挿絵である。画家の名前を挙げれば、鏑木清方、水野年方、渡辺省亭、鰭崎英朋など。この数年、再評価の機運が高まっている画家たちだ。しかし問題は、なぜ「近代文学館」がこのような展覧会を企画したかである。

 開催趣旨によれば、江戸の戯作者たちは、文章よりも先に口絵・挿絵の下絵を描き、それを見ながら文案を練るのが普通だった。そうした制作慣習は維新後も廃れず、明治の近代作家たちの多くも、実は口絵・挿絵に指示を出し続けていたという。つまり、我々が明治の「文学者」として認識している、坪内逍遙や尾崎紅葉、幸田露伴、樋口一葉、島崎藤村、泉鏡花、おそらくは田山花袋や夏目漱石にとっても「作品」とは「自分で指示した絵と文章がセットになった形」だったと考えられる。

 これは荒唐無稽な話ではない。本展には、坪内逍遥が小説『当世書生気質』のために描いた自筆指示画「池之端の出会ひ」や「塾舎の西瓜割り」の複製(原本は早稲田大学附属図書館所蔵)が、実際に刊行された際の挿絵(長原止水筆)と比較して展示されている。「指示画」なので、構図など凝ったところはないが、必要な情報が一目で分かるように描かれている。ちなみに、長原止水(長原孝太郎)は黒田清輝の下で学んだ洋画家で、白馬会にも参加しているのだな。知らなかった。

 同じように尾崎紅葉が『多情多恨』のために描いた指示画の複製(これも原本は早大図書館)も出ていた。紅葉のほうが、逍遥よりも指示画と割り切って、ちゃっちゃと描いている感じだが、二人ともなかなか巧い。

 島崎藤村は短編集『緑葉集』口絵(所収の「老嬢」より)と『破壊』の「姉弟」の参考図意(複製)が出ていたが、ややバタくさい洋画ふう。両作品とも、刊行時の担当が鏑木清方であるというのが意外だった。樋口一葉や夏目漱石も、小説の連載にあたって、絵の指示を求められていたことが日記などから分かるという。

 口絵は、登場人物を紹介したり、小説本体の前日譚や後日譚を示したりする重要な役割を担っていた。私が子供の頃の少年少女小説にも、よくカラー口絵が付いていたので、雰囲気は分かる。敢えて口絵でミスリードを誘っておいて、小説は違う展開になる(意図せず、そうなってしまった?)作品もあるという。こういう出版事情を知ると、「文学」とは、文章(だけ)による作品なのか?という疑問があらためて湧いてくる。この展覧会が「絵から明治文学のありかたを捉えなおす、おそらく世界でもはじめての試みです」という宣言には、相応の意味があると思う。

 東海散士『佳人之奇遇』には、楼閣の上からフィラデルフィアの川と山並みを遠望する挿絵(絵師不明)があるが、同じ初版なのに、影のつけかたなど、かなり印象の違う仕上がりがあることが知られている。雑誌『文芸倶楽部』に掲載された梶田半古の『ゆあみ』には、遠くの千鳥が1羽足りないなど、間違い探しのような異版(?)が存在する。そもそも、こうした口絵がどのように制作され、頒布されていたのか、これから研究の余地は大いにありそうだ。大判の美麗な多色摺口絵で、全く折り目のないものが伝わっているのは、何らかの理由で製本にまわされず、好事家に横流しされたのではないかなど、想像が広がる。

 私は本展を見に行く前に、東京大学ヒューマニティーズセンターのオープンセミナー『木版口絵の世界-口絵との出会い』(1月21日、オンライン開催)を視聴させてもらった。本展の編集委員(企画者)である出口智之氏が、上記のような「明治文学」と挿絵・口絵の関係について解説したあと、木版口絵コレクターの朝日智雄さんが、所蔵の名品を(パワポで)見せつつ、木版口絵の魅力、国内外の研究・蒐集の状況を話すというものだった。朝日さんのお名前は、昨年、太田記念美術館の『鏑木清方と鰭崎英朋 近代文学を彩る口絵-朝日智雄コレクション』から意識していた。朝日さん、本来のお仕事はよく知らないが(食品加工会社を経営という記事あり)、 ハワイ出張の折、ゴルフに出かける同僚を尻目に、木版口絵コレクションを見るためにハワイ大学図書館を訪ねる話が微笑ましかった。人間、情熱を傾けられる趣味を持つことは、ほんと大事。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする