〇木村幹『韓国愛憎:激変する隣国と私の30年』(中公新書) 中央公論新社 2022.1
木村幹先生は韓国現代政治の研究者だが、ツイッターでは、韓国情報に加えて、院生指導の苦労とか趣味の輪行の様子とか、いろいろつぶやいてくださるのが楽しいので、私は長年フォローしている。しかし著書を読むのは、ご本人が「自叙伝もどき」とおっしゃる本書が初めてである。
本書は、1966年、在日コリアンの暮らす街である大阪府河内市(現・東大阪市)で著者が生まれたところから始まる。やがて京大法学部に進んだ著者は、大学教員を目指すことに決め、特に思い入れもなく、消去法的に韓国を研究対象に選ぶ。韓国留学、米国留学、愛媛大学等を経て神戸大学に着任。政治学の新しい研究スタイル「政治科学」との葛藤に悩んだりする。
2002年から日韓歴史共同研究に参加。これは同年のサッカーワールドカップ日韓共同開催を好機として、両国の友好関係強化のため、日本・小泉純一郎首相と韓国・金大中大統領が立ち上げた国家間プロジェクトである。当時、私は日韓関係に興味を持ち始めていたので、このプロジェクトは覚えている。結局、目に見える成果はなしに終わってしまったように思っていたが、著者の回想によれば、昼、公式の研究会では対立した研究者たちも、夜の懇親会では打ち解けているように見えたというから、研究者間の交流には意味があったと言ってよいのだろう。ちなみに私は無関係だが、この時期は韓流ブーム(2003年~)も起きていた。
日韓歴史共同研究の第1期は2005年に終了し、2007年から第2期が始まる。日韓関係は、2005年頃から、竹島問題や『マンガ嫌韓流』の影響で急速に悪化していた。韓国・廬武鉉政権、日本・安倍政権は、それぞれ国内での歴史の見直しを積極的に推し進め、相手国に厳しい態度で臨もうとした。そのため、第2期の委員は、多くが両国の歴史認識を代弁する傾向となり、議論も不毛な衝突にならざるを得なかったという。木村先生には「お疲れ様でした」と申し上げるしかない。
2000年代初め、日本社会には日韓関係について好意的な雰囲気があった。これは全くそのとおりというか、私などは、90年代末から2000年代に初めて韓国という隣国に関心を持った。私事になるが、職場の海外研修に応募して、公費出張で初めて韓国の地を踏んだのが99年(韓国の大学図書館と大学事務を訪ねてまわった)、それから2003年と2008年には友人と韓国古蹟めぐり旅行にも出かけた。私は90年代半ばまで、韓国の歴史も、近現代の複雑な日韓関係も全く知らなかったので、この時期の楽観的な日韓友好志向には、コロリと騙されていた。しかし、著者の言うとおり、98年の小渕恵三と金大中による「日韓パートナーシップ宣言」は、潜在的な問題を承知の上で「臭いものに蓋」をしたとも言える。こうやって手際よく庶民を騙してくれる「食えない政治家」は必要な存在だ。
著者は2001年の夏に高麗大学に短期留学し、90年代末のアジア通貨危機以降の韓国が、グローバル化への適応を果たし、急速に日本と異なる社会になりつつあることを実感する。それは、韓国社会において、かつての成長モデルだった日本の存在感が急速に失われていることを意味した。グローバル化とは世界各国の地域の枠を超えてより遠い国々との関係を深めることである。交流が世界規模に拡大すれば、地域的な協力の重要性は必然的に小さくなる。後半は、民主党政権の「東アジア共同体構想」が周回遅れだったことを批判した箇所だが、全く首肯せざるを得ない。
2010年代、韓国はますます自信を深める。経済的に大きな自信を得たことによって、韓国は歴史認識問題を克服していくかもしれないと著者は考えたが、それは当たらなかった。2010年の韓国併合100周年を巧みに乗り切ったかに見えた李明博政権の対日政策転換によって、日韓関係は急速に悪化する。しかし興味深いのは、影響を受けたのは日本の世論だけという指摘である。つまり、すでに日本の存在感が希薄な韓国では、対日政策が政権の支持率を左右することはないので、政権としても、あまり対日関係の正常化に熱心になれないのだろう。
いま、日本の多くの若者が、韓国のドラマや音楽、ファッションをふつうに身近なものと感じている。30年前には想像もできなかった関係性だ。それなのに政治の世界(インターネット世論を含む)では、日韓両国とも古い誇りにとりつかれた人たちが、幻想の中の相手と戦っているように思われる。このめんどくさい状況、即座に解消することは難しいだろうが、少しずつ後者の人たちの声が小さくなっていくことを願う。