〇東京国立近代美術館 柳宗悦没後60年記念展『民藝の100年』(2021年10月26日~2022年2月13日)
先々週見てきたのだが、これは思いのほか難しい展覧会だぞと思って、感想が書けずにいた。「民藝」はおよそ100年前、柳宗悦、濱田庄司、河井寬次郎らが作り出した新しい美の概念である。本展は、出版物、写真、映像などの関連資料を加えると、総点数450点を超える大規模な展覧会だが、その6割以上(工芸品に限ればもっと)は、柳宗悦が設立した日本民藝館の所蔵品だ。
本展は、おおむね蒐集年代別に構成されており、1910-1920年代初頭/1910年代後半-1920年代に蒐集された朝鮮陶磁、日本蒐集紀行のこぎん(刺し子)や木喰仏、西洋蒐集紀行のスリップウェアやウィンザーチェアは、どれも民藝館でおなじみの品だった。1920-1930年代、柳らの関心は、日本と世界の民家、大津絵、あらゆるフォークアートに広がっていき、蒐集品の美を発信(出版)するために、トリミングや配置など効果的な「編集」が用いられるようになる。1930-1940年代、民藝は出版だけでなく、多様なメディア(民芸館の展示設計、日用品のデザインと販売等)を活用し、人々の生活の中に深く入り込んでいく。日本の「境界」であるアイヌ、沖縄、さらに朝鮮、中国・華北、台湾も取り込み、日本文化の対外発信の一翼を担うようになる。
最近、私は大塚英志の『「暮し」のファシズム』を読み、戦時下で推奨された生活の工夫や節約、すなわち「ていねいなくらし」とは、国民の「内面」の動員だった、という指摘を共感をもって受け止めた。この本を読みながら、ずっと脳裏に浮かんでいたのは「民藝」の存在だった。そして、この展示を見ている間は、大塚英志の指摘を思い出さずにいられなかった。
柳らが発見し、創造した民藝は、確かに純粋に美しい。日本民藝館では、展示品をあらゆる文脈から切り離し(時代や産地の解説は極少にとどめて)見せてくれるので、虚心坦懐に美しさに向き合うことができる。一方、本展では、ひとつのアイテムが、どのような時代背景、編集意図につながっていたかが、嫌になるほど分かってしまう。だから、とても悩ましい。
戦後は日本が国際社会に復帰し、高度経済成長を遂げていく中で、民藝は再び国際文化交流の最前線に立ち、インダストリアルデザインと結びついて、衣食住のトータルデザインを提唱するようになる。このあたりも、花森安治の戦前から戦後の歩みと重なる感じがする。本来的には、民藝のほうがハイソサエティ志向だろう(銀座の「ざくろ」とか)。
というわけで、私にとっては、やや後味の重たい展覧会だった。あらためて印象に残ったのは、柳宗悦の「編集力」とメディア戦略の巧みさである。柳は、壺や徳利の文字、すなわち伝統や型や技法の制約によって「個性の角」がとれた「非個人的な文字」に注目し、その延長上に拓本(筆記→石刻→風化→墨拓という輪廻を経た文字)を位置づけ、特に六朝の文字を好んだ。この「フォント」へのこだわりも、実は、上述の大塚英志本に出てくる花森安治と共通するのである。
それから、民藝運動といえば、私が思い浮かべるのは、柳宗悦のほか、日本民藝館に作品を残した創作家のバーナード・リーチ、濱田庄司、河井寛次郎らだが、それ以外にも多数の活動家がいることを認識した。農民美術運動の山本鼎、鳥取民家譜の吉田璋也の名前は記憶に留めておきたい。耳鼻科医の吉田は、鳥取市にたくみ工藝店(今もある!)を開いて地元の工人の作品を販売し、戦地の華北では中国の椅子文化に着目し、日本人の生活に合わせて改良を重ね、人気商品に仕立てたという。おもしろいなあ。このひとの名前を知っただけでも、本展は行った甲斐があった。
※吉田璋也の世界/「吉田璋也デザイン運動の歴史的価値を検証する」委員会