〇伊藤俊一『荘園:墾田永年私財法から応仁の乱まで』(中公新書) 中央公論新社 2021.9
質量ともに読み応えのある1冊だった。中心テーマは中世の荘園だが、記述はその前史である律令国家から始まり、荘園の誕生、成長、変容、終焉まで750年余りの歴史を追っていく。
試しに自分の理解をまとめてみる。古代日本の律令制は公地公民を原則としたが、人々が新たに農地を開発するインセンティブに欠けたため、743年に墾田私財永年法が制定され、各地に初期荘園が生まれた。9世紀後半、摂関期の朝廷は国司に権限を委譲し、国司(受領)は国内の耕地を名(みょう)に分けて有力農民の田堵(たと)に経営と納税を請け負わせた。さらに耕地の開発を奨励するため、税の減免を認めた免田を許可した結果、免田型荘園が生まれた。ここまでが中世荘園制の前史にあたる。
10世紀後半、国衙の在庁官人に公領の徴税権を与える別名(べつみょう)の制度が導入され、役職の義務と利権を世襲する職(しき)の慣行が定着すると、地方豪族である在地領主が誕生し、在地領主から都の有力者に寄進された免田を核として、治外法権的な領域型荘園が成立する。その領主権は、本家(天皇家や摂関家)・領家(寄進を仲介した貴族)・荘官の三層構造になっていた。鳥羽上皇や後白河上皇により、八条院領や長講堂領という巨大荘園群が形成される。
鎌倉幕府が成立すると、頼朝は御家人に与えた領地に地頭制を敷いた。地頭は荘官の年貢・公事の義務を引き継いだが、次第に怠るようになった。鎌倉時代末には、荘園領主制の重層性が解体して、一領主が一領域を支配することが一般化する。耕地は、武家が所持する武家領と貴族・寺社が所持する寺社本所領とに区分されるようになった。
南北朝の争乱期には前線で軍勢を率いる守護の権限が拡大し、荘園支配には当地の守護の承認が必要になった。室町幕府は、守護在京制を導入することで、地方を治める守護権力の当主たちを、京都に集住する領主たちの世界に組み入れ、荘園では、土倉・禅僧・守護などに年貢収納を請け負わせる代官請負が普及した。しかし、応仁の乱によって守護在京制は解体する。一方、村人の自治による惣村が形成され、国人領主が国衆へ成長していく中で、支配の枠組みとしての荘園は地域社会から消えていった。
以上、基本的には通史の形態だが、途中「中世荘園の世界」の章は、鎌倉時代の比較的安定した荘園の姿を多角的に描き出している。土地がどのように利用され、どのような景観が形成されていたか。どんな作物がつくられ、どんな農具が使われたか。人々はどんな社会関係の下に置かれていたか。農民以外の職人はいたか。年貢はどのくらいか。輸送手段は?市場は?などなど。標準的な社会関係や技術の進歩がある一方、意外と多様性があったことも認識した。塩や鉄を年貢とした荘園もあったのだな。こうした背景を知ることで、荘園絵図や絵巻物を見る際も、新たな面白さが加わるように思う。
本書は社会経済史に属するのだろうが、実は政治史についての記述も詳しい。保元・平治の乱から平家政権、さらに鎌倉幕府の成立に向かうあたり、あまりに詳しいので、ちょっと違う本を読んでいるような感じがした。しかし、政治体制の変革は社会や経済に影響し、最終的に荘園制の変容に結びつくのだから、当然必要な記述である。
一方で、政治とは無関係に社会や経済を動かす要因もある。近年、気温と降水量の変動が年単位でわかるようになり、著者によれば、気候変動と荘園の歴史は「けっこう対応する」のだそうだ。本書には、9世紀から15世紀までの気候変動グラフが掲載されており、これを眺めるだけも興味深い。たとえば13世紀の異常気象(1230年の冷夏)については、藤原定家が米の凶作に備えて庭の植木を掘り捨てて麦畑をつくらせたことが紹介されている。定家の話は明月記にあるのだろうか? 中世に生きるのは大変なことだ。
全国的な統治権力の変遷とは別に、農民が「惣」という自治集団をつくり、領主に対する立場を強めていく過程も興味深かった。この前段として、13~14世紀、農地の量的拡大が限界に達したため、耕地化できないところに家屋を集約する集村化が進み、農作業のやりかたが変わり、農民どうしの結びつきが強くなったという。よく俗説で勤勉や協調が日本人の国民性みたいに言われるのは、これ以降の話なんだろうな。
それから、荘園を経済基盤とする京都などの寺社が年貢の確実な収納に苦労してきたこともよく分かった。南北朝・室町時代になると、禅寺は宋の寺院制度に倣い、教学に携わる西班衆と経理・管財を担当する東班衆を置いた。五山派禅寺の東班衆は、寺外の荘園領主と契約し、その所領の代官としても活躍した。専門家集団による業務請負か! こういう古代や中世における寺社や僧侶の社会的役割は、もっと語られてもいいような気がする。