見もの・読みもの日記

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女文字による動員/「暮し」のファシズム(大塚英志)

2022-02-07 22:53:16 | 読んだもの(書籍)

〇大塚英志『「暮し」のファシズム:戦争は「新しい生活様式」の顔をしてやってきた』(筑摩選書) 筑摩書房 2021.3

 コロナ禍の中で広まった「新しい生活様式」という語の響きに、著者は不快な既視感があったという。日々の暮らしのあり方について為政者が「新しさ」を求め、社会全体がそれに積極的に従う様が、かつての戦時下、より具体的には、1940(昭和15)年、第二次近衛内閣が提唱した「新体制」の一部、「新生活体制」を想起させるというのだ。「新体制」とは、全面戦争に対応し得る国家体制構築のため、政治、経済、教育、文化など「国民生活」の全面的な更新を目論むものだった。国民の「内面」の動員が意図されていたと言ってもよい。そこで用いられたのは、勇ましい「男文字」のプロパガンダばかりではない。本書は、我々の「日常」や「生活」が「女文字」のプロパガンダによって巧妙に作り替えられていった様子を検証する。具体例としては、花森安治の仕事、太宰治の小説『女生徒』、詩人・尾崎喜八が描いた「隣組」、新聞まんが、写真家・堀野正雄などが、取り上げられている。

 私が最も興味深く読んだのは、太宰治『女生徒』の章だ。この女性一人称小説は、有明淑(しず)という実在の女性が、太宰に送ってきた日記を下敷きに書かれたことが分かっている(私は初めて知った)。本書は、有明の日記(2000年に公刊)の原文と小説を比較し、太宰による「姑息」な加筆・修正を明らかにする。明瞭な政治意識と批判精神を持ち、「道徳」や「社会」による同調圧力を嫌悪し、「私」の感じ方を大事にしようとしていた有明の内面を、太宰は、ものの見事に消し去っているのだ。小説の中の「女生徒」は、自分の未熟さに起因する不安を述べたあと、「ただ一言、右へ行け、左へ行け、と、ただ一言、権威をもって指で示してくれたほうが、どんなに有難いかわからない」と表明する。これをどう読むべきか?

 小説であると分かってはいても、私は太宰の「捏造」に強い嫌悪と怒りを感じた。「個人主義」の否定は、時代の要請だったというが、それにしても翼賛体制に対して、見事な忠誠ぶりである。本書は、太宰の女性一人称小説は、転向小説であり、翼賛小説であると解説している。

 男性による「女文字」(女性の好み、感じ方を偽装したもの)のプロパガンダの手練れといえば、花森安治だろう。私は、母の愛読誌だった『暮しの手帖』で彼の仕事に親しんだ世代だが、花森は、戦時下の婦人雑誌『婦人の生活』でも、積極的にさまざまな工夫をすることで、「都会的」で「インテリ」な「ていねいなくらし」が実現することを説いている。ううむ、この「国策」の魅力に抗うのは、分かりやすい「男文字」のプロパガンダより難しいぞ…と感じた。花森の戯曲「明るい町 強い町」も同じだ。暗い顔をした人々を、明るい顔に変えるために奔走するこびとたち。「楽しい歌」に動かされなかった「怠け者」も、戦場の現実を突きつけられることによって、態度を豹変させる。これは、かなり怖いアレゴリーだが、いまの日本でも、同様の事態がじわじわ起きているように思う。また、花森が「女文字」だけでなく、「男文字」のプロパガンダの巧者であったことも、あらためて記憶しておきたい。

 新聞まんがについては、1930年代後半の総動員体制、翼賛体制の下で、「家族」と「町内」を舞台とする様式が定型化したことが分かっているという(中国の日本まんが研究家・徐園氏の研究)。転機となったのは、新日本漫画協会が集団で制作した「翼賛一家」(!)という作品である。面白かったのは、「いささか頼りない空回りする父親」「呑気で憎めない男性像」というキャラクターが、この時代に頻出・定着し、戦後の「サザエさん」等に受け継がれていくという図式だ。これもいろいろ深読みができる。

 写真家・堀野正雄は、制服姿の女子学生がガスマスクをつけて行進する写真(時事新報・写真ニュース)を残している。星野はアヴァンギャルドあるいはプロレタリア芸術運動と戦時プロパガンダの双方を生きた。芸術運動とプロパガンダというのも興味深いテーマだが、ここでは、女学生の制服が、総動員体制・翼賛体制の象徴であるとともに、女性たちの「自由」と「個性」、すなわち「国策」への抵抗の場でもあったという指摘が重要だと思う。

 以上、「ていねいなくらし」の顔をしてやってくる「内面」の動員こそ、最も抵抗しにくいものだと思った。なるべくずぼらで怠惰でいることが、一番の抵抗かもしれない。

コメント (2)
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