金太郎伝説は日本各地にありますが、ここでは小山町に伝わるお話です。
まさかりかついで きんたろう くまにまたがり おうまのけいこ ハイシ ドウドウ ハイドウドウ ハイシ ドウドウ ハイドウドウ
あしがらやまの やまおくで けだものあつめて すもうのけいこ ハッケ ヨイヨイ ノコッタ ハッケ ヨイヨイ ノコッタ
明治 33年6月に発表された児童唱歌。 作詞:石原 和三郎 作曲:田村 虎蔵
金太郎ゆかりの地といわれる、ここ小山町には金時屋敷のあった一帯を「金時公園」として保存管理されています。
金時屋敷は坂田 金時の家があった所で、現在は金時神社の拝殿が建てられています。
祭神は「坂田 金時」、神域は小山町中島、金太郎が呱々(ここ)の声をあげた山崎家を含む坂田三軒のあった「金時屋敷」の跡で、その屋敷裏にあった金時産湯の水「ちょろり七滝」は今尚その清流に古き昔を偲ばせる水音を響かせ古風の生家は境を接して現存しています。
このことは、文政3年(1820)に発行された【駿河記】に記されているとのことです。
幼名 金太郎、「金」の字も鮮やかな腹掛けをして猿や熊と力を競い、猪の鼻嶽(現在の金時山)の山頂でよく遊んだ。この山々と恵まれた環境の中で、力逞しく心凛々しい怪童に育てられた。
天暦 10年(958)5月 金太郎誕生 中島(現:小山町中島)の彫り物師「十兵衛」の娘、八重桐は京にのぼり、大宮人 坂田 蔵人と結ばれ懐妊したので故郷に帰り金太郎を生んだが、間もなく蔵人が亡くなったので京へ帰らず中島で金太郎を育てた。 大きくなってから金太郎は母に孝養をつくし、足柄山で熊と相撲をとったり、大鯉を捕まえたりして、智・仁・勇をそなえた立派な子供として成長していった。
天延4年(976)3月 21日 源 頼光と対面 源 頼光は上総(現:千葉県)守護の任期が終って、足柄峠に差し掛かった時、怪童 金太郎と出会い その力量を見抜いて主従の縁を結ぶと共に坂田 公時と命名し、京にのぼって頼光四天王の一人となった。 源朝臣(あそん)頼光の四天王は 渡辺舎人(とねり)綱、坂田靫負(ゆげい)公時、碓井荒三郎貞光、卜部六郎季武(うらべろくろうすえたけ)の4名であります。 【前太平記】
正暦元年(990)3月26日 大江山酒呑童子退治 丹波の国、大江山(現:京都市西京区大枝)に酒呑童子が住み、都に出てきては悪いことをしたので勅命により頼光を大将に藤原 保昌を案内として、四天王が山伏姿に身を変えて、神変奇特酒(眠り薬入り酒)をもって酒呑童子を退治したとのことです。 【御伽草子】
寛弘7年(1011)12月15日 没 九州の賊を征伐のために筑紫(現:北九州市)に向かう途中、作州路 美作(みまさか)勝田荘(現:岡山県勝央(しょうおう)町)に於いて重い熱病にかかり 55歳で亡くなったそうです。 勝田の人々は公時の武勇を慕い、倶利加羅(くりがら:剛勇の意)神社を建てて葬った。 現在は栗柄神社と称しています。 【作陽誌】
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