中沢新一 平成27年2月 角川文庫版
中沢新一の師、ラマ・ケツン・サンポの自伝を再編集したもの。
もとの本である『知恵の遙かな頂』(1997)は、私は読んでない。
もしかしたら、そのころには、チベットや仏教に関する興味は失せちゃってたのかもしれない。
今回は、ほかの中沢新一氏の新刊を書店で買おうとしたら、近くに見かけたんで、ついでに買ったようなもの。
読んでみれば、おもしろい。
ケツン・サンポ師が、幼少のころから、心に関する真理を知ることに目覚め、仏教を学ぶことを志したとこから。
いろんな師と出会い、貴重な体験を重ねる一方、修行のジャマをされるような出来事にぶつかったこともしばしば。
そして、1959年に、チベットを脱出し、ブータンからインドへと亡命するんだけど、このあたりのチベット民族の悲劇については私は何も知らんかったんで、けっこうショックだった。
なんで、チベット仏教なんかに興味があるかっていうのは、説明すんのは難しい。なんでタイガースファンになったのかっていうのと同じくらい、もう理屈ぢゃなくて何故か長いこと染みついちゃってる性質のようなもんだから。
でも、まあ、たとえば、中沢新一の書いている序文のなかの次のような一節あたりが、わりと近い気がする。
>自分たちは日常の生活では、煩悩に覆われて、他人のことを思えば嫉妬に燃え、自分より恵まれた人間のことをみると、悔しいと思い、逆に少しでも自分の方が上に立っていると思えば相手を見下す。毎日自分の心は煩悩でいっぱいだけれど、このヨーギン(引用者注:ヨガ行者のこと)たちの姿を見れば、人間の世界には、そういうことを突き抜けている人もいるのだと知るのです。物質的富は何も持たず、精神的な価値だけで生きることで、人間は偉大なものに近づける。そういうことを実践してみせている人に心打たれるのです。(略)
中沢新一の師、ラマ・ケツン・サンポの自伝を再編集したもの。
もとの本である『知恵の遙かな頂』(1997)は、私は読んでない。
もしかしたら、そのころには、チベットや仏教に関する興味は失せちゃってたのかもしれない。
今回は、ほかの中沢新一氏の新刊を書店で買おうとしたら、近くに見かけたんで、ついでに買ったようなもの。
読んでみれば、おもしろい。
ケツン・サンポ師が、幼少のころから、心に関する真理を知ることに目覚め、仏教を学ぶことを志したとこから。
いろんな師と出会い、貴重な体験を重ねる一方、修行のジャマをされるような出来事にぶつかったこともしばしば。
そして、1959年に、チベットを脱出し、ブータンからインドへと亡命するんだけど、このあたりのチベット民族の悲劇については私は何も知らんかったんで、けっこうショックだった。
なんで、チベット仏教なんかに興味があるかっていうのは、説明すんのは難しい。なんでタイガースファンになったのかっていうのと同じくらい、もう理屈ぢゃなくて何故か長いこと染みついちゃってる性質のようなもんだから。
でも、まあ、たとえば、中沢新一の書いている序文のなかの次のような一節あたりが、わりと近い気がする。
>自分たちは日常の生活では、煩悩に覆われて、他人のことを思えば嫉妬に燃え、自分より恵まれた人間のことをみると、悔しいと思い、逆に少しでも自分の方が上に立っていると思えば相手を見下す。毎日自分の心は煩悩でいっぱいだけれど、このヨーギン(引用者注:ヨガ行者のこと)たちの姿を見れば、人間の世界には、そういうことを突き抜けている人もいるのだと知るのです。物質的富は何も持たず、精神的な価値だけで生きることで、人間は偉大なものに近づける。そういうことを実践してみせている人に心打たれるのです。(略)