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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

スポーツ解体新書

2021-04-11 18:30:14 | 読んだ本

玉木正之 2006年 朝日文庫版
米原万里さんが、「私の読書日記」のなかの「脱帽の三冊」という章で、
>(略)三頁に一回の割でスポーツにまつわるこういう思い込みや無知を突きながら、現在の日本のスポーツが抱える根本問題をほぼ網羅的に取り上げていく。(略)
>率直にして辛辣。該博な知識と教養が視野を広げてくれる。
と評していたので、古本を先月買い求めて、つい最近読んだ。
そこで米原さんもとりあげていたように、
>(略)われわれ日本人は、学校や会社などの組織に帰属する意識が強く、団体意識を強く持ち、団体行動には優れているけれど、じつは、チーム・プレイは苦手な面があるように思えてなりません。学校のスポーツクラブでの合宿などでも、起床は何時(略)といった具合に、団体行動が決められ、チーム全員が同じ行動をとるのが普通です。(略)誰もが同じ行動をする団体行動は得意なのです。
>しかし、団体行動とチーム・プレイは、本質的に異なるものです。チーム・プレイは、誰もが同じ動きをしていては成立しません。また、あらかじめ決められた動きではなく、ゲームの流れのなかで、あらかじめ予定していたこととは異なる動きをするのがチーム・プレイです。(p.52-53)
みたいな、日本人にとって近代化で輸入されたスポーツって、ちょっと本来のものとは違ってきちゃってるんぢゃないのって指摘をいろいろしてくれる。
そのあたり、私なんかは、すぐ、日本人はなんでも「道」にしちゃうからなーとか思ってしまう。
あと、よく思うのは、日本のスポーツ報道って、「ポジション」とかあてはめるのが好きだよねえ。
野球はたしかに野手の守る場所ってほぼ固定されてるけど、最近ぢゃあピッチャーが先発なのか中継ぎなのかとかをコーチ監督よりもマスコミのほうが固めたがってるようにみえることがある。
サッカーみたいに状況によって動き大きいものに対しても、初期配置のポジションにやたらこだわるでしょ。(たしか中田英寿は「システムでサッカーやってんぢゃありませんから」みたいに言ってた。)
あれはなんなんだろうね、やっぱ組織のどこかに自分の居場所があることを確認して安心したがる、日本のサラリーマン根性みたいなのが報道する側にあんぢゃねーの、と私は思ってるんだが。
閑話休題。
そんで、日本人がスポーツについて、あまり楽しんだりしないで、妙にマジメにとらえて、精神修養になること求めちゃったり、猛練習を美徳としちゃったりするのは、
>スポーツは体育として学校でやるもの、というのが「常識」だったのです。それが、第二次世界大戦前までの日本のスポーツ事情であり、スポーツ観(体育観)だったのです。(p.106)
というところに起因するらしい。
だから、スポーツする場所が学校にしかなくて、学校卒業したあとも選手生活続けるひとは何らかの形で学校に残ったりという道をとった。
やがて企業が選手を抱える企業スポーツっていう日本独特の形ができてったけど、それでますます、肝心な、地域社会でつくるスポーツクラブみたいなものできる流れができてこなかったと。
うーむ、しょうがねえなあ輸入文化だから、そう簡単にはなじまない。
そんな日本の特性みたいなことよりも、あちこちで紹介されている欧米のもともとのスポーツ思想のような話のほうが興味深い。
近代スポーツにおけるアマチュアリズムについては、1866年の全英陸上選手権開催時にロンドンのアマチュア・アスレチック・クラブが「アマチュア規定」を発表したんだが、このなかにある文章をあげ、
>《手先の訓練を必要とする職業(trade)、熟練工(artisan)、機械修理工(mechanic)。これらはアマチュアとは認めない》
>つまり肉体労働者は、常日頃から体を使っている「身体活動のプロフェッショナル」とみなされ、アマチュアとは認められず、スポーツ大会に出場することができなかったのです。
>(略)このように、「アマチュア規定」とは、もとはといえば、肉体労働者をスポーツ競技会から排除するために人為的につくりあげられた差別思想だったのです。(p.88)
と解説してくれてるとことか、すごく勉強になる。
もとはといえば貴族、産業革命以降はブルジョワジーが、自分たちは階層が上だけど愛好家としてスポーツするんだもん、ということか。
そうなんだよね、プロ選手といえば現代では聞こえがいいが、古いヨーロッパでは王侯貴族が剣闘士やとってコロシアムで殺し合いするのを観戦するってあたりがプロスポーツの原点だからな、戦うの専門のドレイがプロ競技者。
ヨーロッパのエリート思想が「メンバーチェンジ」にもあらわれている、って話もおもしろい。
かつてのラグビーやサッカーでは選手の交代が認められなかった、これは試合に出場するのは選ばれた者であり、試合終了までプレイしつづけることが求められたから。
先発メンバーに選ばれることがエリートってことなんで、エリートとエリートぢゃない人が試合の途中で交代することはあってはならん、と。
それに対して、一人でも多く誰もが参加できる大衆性を重んじるアメリカン・デモクラシーに裏打ちされるアメリカのスポーツでは、バスケットもアイスホッケーもベースボールも頻繁にメンバーチェンジができるルールになった、と聞くとなんかすごく深淵なものに感じられる、スポーツのルール。
さらに、審判の判定についても、ヨーロッパでは主審ひとりが絶対的なのに対して、アメリカでは主審が副審とか線審とかと協議したり、それどころがVTR判定を適用したりとか、明白さを追求してる。
そうかーと思わされたのは時計のことで、アメリカのスポーツでは試合時間を正式に表す時計が、選手にもコーチ監督にも観客にも見えるところにあって、あと何秒とかってのが誰にも正確にわかるのに対して、ヨーロッパの伝統のスポーツでは主審の腕時計だけが基準で、ロスタイムをあとどれくらいとるか、いつ試合終わりにするのかってのが主審ひとりにまかされている。
そのへんのことを、
>ヨーロッパ社会は、過去の長い歴史のうえに成り立っています。スポーツもその例外ではなく、近代スポーツとしてルールや組織が整えられる以前の「前近代」の長い歴史が存在しているのです。(略)
>(略)絶対王政という政治制度を経験していたヨーロッパのひとびとは、試合の流れを妨げず、即座にジャッジメントを下すうえで、最もスピーディで最も効率的な制度は(時間をかけて話し合いを行う民主制ではなく)審判に対して絶対王政の王権のような権力を付与することだと判断したわけです。(p.176-177)
とか教えてくれる、歴史持ち出すと、なんか大げさな話だなって気がしないでもないが、真実なんだからスポーツ文化ってのは深いものがある。

コメント
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