佐藤春夫 昭和五十三年 冨山房百科文庫版・上下巻
ことし2月に地下鉄乗って出かけてった古本フェアで、2冊そろいであるのを見つけて買った古本。
本書については、丸谷才一さんがいろんなとこでいいと言ってたような気がするが、直近で読んだところでは『いろんな色のインクで』のなかの「近代日本の百冊を選ぶ」って章のなかで、佐藤春夫『退屈読本』を丸谷さんが選んでいて(小説を選ばないんだ?とは思った)、えらくホメてたので記憶に残ってた。いわく、
>まことに才気煥発の命名だが、本の中身はもつとすごい。たとへば『「風流」論』はむづかしい言葉などちつとも使はずに風流とは何かを縦横に論じた日本美の探求で、感覚の鋭さと頭の冴えを存分に見せる。(略)かういふ、わりに長めの力篇の合間合間にごく短い文章がはいつてゐて、これがまた唸るしかない。
>大正文学は、小説家による共同体、つまり文壇の所産であつた。(略)彼は清新な文学的感覚を駆使してこの共同体の美学と政治学を整理し(略)、昭和期の文学を準備した。
>(略)批評の原点としてのサロンの閑談を近代日本で最も見事に成立させたのは『退屈読本』であつた。(『いろんな色のインクで』p366-367「佐藤春夫『退屈読本』」)
ということである。
そしたら、この文庫の上巻の巻頭に「解題」を丸谷さんが書いていて、同じようにホメている。
いわく、タイトルがいい、構成がいい、文壇のスポークスマンとして優れている、批評を名調子で語る力量がすごい、と。
そういうのに誘われて読んでみたが、なんせ収められているのは大正四年から大正十五年にかけて発表されたものなんで、さすがに私も昭和のもののようにおもしろがっては読めませんでしたが。
っていうか、これまで著者の小説とか読んだことない(はず、記憶にない)んで、えらそうなこと言えませんが。
どうでもいいけど、前回とりあげた『井上ひさしの日本語相談』のなかで、「青春する」みたいな言いかたはヘンぢゃないかと質問された井上ひさしさんは、日本語の動詞の親骨は「~する」なのだ、「漢語+する」で和語だけでは品不足の動詞を補っていると説明したうえで、
>こういう次第で、「××する」型同士の流行は、現在だけではなく、過去に何度もありました。(略)一九四一年に文学者の佐藤春夫はこう書いています。
>「国語を以て文学に従事する(といふことを近ごろは文学するとかいふやうなことを申すが、自分はこんな言葉は大きらひだから使はぬ)(略)
>この佐藤春夫の文章は結構有名で(略)(『井上ひさしの日本語相談』p.99-100「名詞なら何でもすり寄る動詞スル」)
みたいに紹介してます、言葉の使いかたにはそれなりに厳しいひとだったのかも。
閑話休題。
小説家ってだけぢゃなく詩人でもあったそうですが(←だから、詩も読んでないんで)、俳人でもあった父親から詩魂を得たとしながらも、父に言わせると自分は母親に甘やかされたとして、
>しかし私は考へるのだが甘やかされた子供といふものはいつも詩人である。つまり詩人をつくる為めには甘い母が必要なのだ。(上巻p.233「わが父わが母及びその子われ」)
なんていってるんだけど、日本文学史においてそいつは初耳だと思っておもしろがってしまった。
文壇うんぬんっていうことになると、あちこちに谷崎潤一郎と友だちであることや、なんか気軽に芥川龍之介と行ったり来たりしてる様子が書かれてるんで、そういう時代のそういうポジションのひとだったんだあと改めて認識した。
「秋風一夕話」という項目では、何か書けという依頼がきたんだけど、出された問題が、
>現文壇の中堅たる十作家の印象を語り、併せて文壇の大勢を論ず。
>といふすばらしい困つた大問題です。――僕には友達もなし、差障りがなからうからかう一つ勝手なことを言はせようといふつもりですな。(略)
>ところで、問題の提供者は十作家として次の諸家を数へて居られる――。
>菊池、芥川、久米、里見、広津、宇野、葛西、谷崎(潤)、久保田、加能。(p.156)
ということだとしながら、それぞれについて論評していく、この作家たちが中堅で、それについて言いたいこといえる、そういうひとだったんですねえ。
それでひとしきり批評をしてったうえで、やっぱ武者小路氏を無視はできないよと言い出して、
>現代日本文壇にとつて武者小路氏の出現は近世思想史上にルッソオがあることに比敵すると僕は信じてゐる(略)(p.178)
と評価する、武者小路氏が出てきた当時は彼を嘲笑するのが文壇の大勢だったのに、いまではホメるのが大勢になっている、などという。さらに、
>――厳密な意味の言文一致を大成したのは武者氏だと言つてもいいやうな気がする。気がすると言へばこの「気がする」といふ言葉でさへも武者小路氏が最初使ひ出した頃には、随分と人が笑つたものだ。今では「気がする」的表現のない文章を見出すのが困難な位になつた。(p.180)
って書かれているのには読んで驚いた。「気がする」ってそうなの、私なんかもよくつかうんだが由来まったく知らなかった。
さてさて、退屈読本とはいいながら、退屈について論じてるわけぢゃないんだが、それでも著者自身が退屈って言葉をダイレクトに使ってる箇所があって、そこも興味深かった。
月に一度の書評を書く仕事を引き受けたのはいいが、最近はいい作品がないとして、
>それにしても何と今まで読んだ作の多くが――定名ある作家のものが殊に、可もなく不可もないやうな、また格別力のこもらないものの多い事か。沈滞してゐるなどといふいひ草は、もうあまりにいひふるされてゐていひたくないが、どうも外には申し様もない。(略)
>もう少し読んで行くうちには、せめて一つぐらゐは面白い作にぶつつかるか知ら。でないとこの筆にも気の乗らぬ事おびただしい。神よ。この哀れなる月評家のために一篇の光彩ある作品を現出したまへ! さうしてこの文章の退屈を救ひたまへ! (p.53-54「月評的雑文」)
っていう。
退屈読本ってタイトルについて、丸谷さんは、読者が読んで退屈する本、著者が退屈しながら書いた本、退屈というものを教えてくれる本、って三つの意味が生じるっていうんだけど、ここでは読者が退屈しちゃいませんか、ごめんなさいねって気分がちょっとだけ出ちゃってるのがおもしろい。
どうでもいいけど、この冨山房百科文庫というのは初めて読んだ。(たぶん)
『退屈読本』の初版発行は大正十五年(1926年)だというが、どうして昭和五十三年(1978年)にこの文庫に収められたのかは知らないが、こないだ読んだ『広辞苑の神話』のなかで、
>小生毎度申すように、冨山房百科文庫は日本で一番質が高く良心的な文庫である。(『広辞苑の神話』p.226「茶話のはなし」)
と高島俊男さんが書いているので、なんか出版的良心に駆られたんぢゃなかろうかと思う、大正時代のものが原文のまま読めるのはありがたいことだ。
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