夏日になりました。暑いです。
体調は、結構良いです。
三連休ですが…やっぱりのんびり自己流?に過ごしています。
皆さん、お元気でしょうか?
読書の秋ですね。私…
左目 超ド近眼 多分0.01ないと思う。
右目 白内障術の眼内レンズ 0.1
外出時は、コンタクトレンズ(車の運転に合わせているので読書するには
老眼鏡がいる)
家では、メガネ(左右差があり過ぎて、片目はガラスだけ、ド付が入れられない
とメガネやに言われている)
まったく、見えずらいので…
夜長の秋の読書 パソコン できません。
昼間にちょこっと 本も冊子もパソコンも 60分が限度と思って
います。
今日、月一回届く JAP Mate の記事が良かったので 紹介します。
『シアワセの変遷』江國 香織(作家)
しあわせとは何か、と もし10代の私が尋ねられていたら、自由でいること、
と答えただろう(はい、生意気な子どもでした)。
実際、学校で願い事を書くように言われた短冊に、「自由になりたい」
と書いて父にひどく叱られた思い出がある。
お前はそんなに不自由なのか、と、眉間にシワを寄せて父は言った。
(申し訳ないことをしたと思っている)
あの頃の私は、やみくもに自由に憧れてはいても、自由の本質が孤独であること
までは理解していなかった。
20代の私なら、お風呂と本さえあればしあわせ、と答えていたはずだ。
本ばかり読んでいた。お風呂好きが高じて20代後半の五年間は、
毎晩7,8時間(時にはもっと)お風呂場で過ごしていた。
自由だったなぁーと思う。
結婚して家を出る時、母に言われた言葉は
「これでもうあなたが溺れていないかどうか、毎朝お風呂場に確かめに行かなくて
済むのね。ほんとうに、両棲類を飼っているみたいだった」だった
(これもまた、ちょっと申し訳ないことをしたなぁと思っている)
同じ質問をもし30代の私がされていたら、愛し愛されることと答えただろう。
小説家として、そこまで噴飯ものの返答をするわけにはいかないし、
だから口では別のことを言ったかもしれないにしても、心では、間違いなく
そう断言していたはずだ。
恋愛は愉しいし、世界が新しい色彩を放って輝くようで、私はそれに
熱中していたから。
でもそれは、しあわせと呼ぶには強烈すぎるし危険すぎる、ということには
気づいていなかった。
40代の私なら、仲間がいること、と答えたかもしれない。
家族でも恋人でも友達でもなく仲間、というざっくりした関係のおおらかさ
と安心感が気にいっていた。
ともかく仕事が愉しかったので、仕事を通じて様々な人と出会えることや
仲間だと思えることが嬉しかった。
それは今も変わらないのだが、でも、四季同様、仲間たちも移ろう。
移動とか退職とか引っ越しとか家庭の事情とか一。
ここにいたってようやく、しあわせを自分の外側に求めてはいけないことが
私にもわかった。
というわけで、50代のいま、
私は自分が朝起きるだけで嬉しい。
雨ならば雨の降っていることが嬉しく、
晴れならば晴れていることが嬉しい。
自分に五感があって、今日も世の中を観察できる、というのがたぶん、
いまの私のしあわせらしい。
動けなくなってきた(大好きだった舞踊が踊れなくなって)
病気による身体も すべて、今の自分として
包み込められるようになった…
ここまで(変股症発症して 舞踊家引退して それでも踊りたいと思い続けてきたが、
の13年間… 今は、いらだちも嘆きも その先へいき 空かもしれないけれど…)
体と心 素直に嬉しいと思えてきた。
いまの私が大切!!
とこの文章を読んで 思いました。
『変形性股関節症に負けないでね!』