穏やかです。
家の中にいて、テレビをつけなければ部屋にいてしーーーんと静まり返って
マンションの廊下の騒音も上下部屋 隣の部屋の音 何にもしません。
静かです!!
今日は、夫も仕事
一人の時間
のんびり静か
たまには静かもよい
寂しがり屋なので・・・・・・たまにだけれど
お彼岸中なので、私の愛読紙 『高野山教報』からご紹介します。
『合掌のこころ』成松 昇紀(高野山本山布教師)
お寺に参拝される時、多くの方は両手を合わせ合掌して参拝されると
思います。
「右仏、左は我と合わす手の 中ぞゆかしき南無の一声」
という歌があります。右の手は仏さま、左手は自分自身をあらわし、
仏と自身が一つとなるのです。
では我という言葉について考えてみましよう。皆さんは自分が今ここに
存在しているのは誰のお陰か考えたことがあるでしょうか。
この世に生まれるためには両親の存在が不可欠です。
父母の縁のきっかけがあり、宇宙の根源大日如来の懐より命を賜り
この世に誕生したのです。
親が2人、祖父母が4人、曾祖父母が8人、私という存在がこの世に
生み出されるまで、三代遡っただけで14人の存在が不可欠です。
これをさらに遡ると膨大な人数となります。
しかし、肝心なのは何人の命が存在していたかではありません。
たくさんのご先祖様がおられ私という存在が生まれてきた。
多くの命のリレーで命が引き継がれてきたのだということを、まずは
感じていただきたいと思います。
そして、生まれてきた後も先祖以外のたくさんの命と関わります。
多くの方の支え、協力によって我々は育まれてきました。
生まれてすぐは助産婦さんや産婦人科の先生のお世話になったでしょう。
大きくなると保育士さんや学校の先生、友人、知人、近所の方々、
人は1人では生きていくことができません。
社会という集合体の中でこそ生きていくことができるのです。
食事を通して考えてみましょう。
例えばお米のご飯を食べるとします。炊いたのは自分か家族の誰かかも
しれませんが、お米そのものは農家の方が育て収穫したものです。
そして、精米され、運搬され、販売され自分の元にもたらされます。
その間、実に多くの方が関わっています。
このように直接相手を知らずとも、世の中の誰かが働いた結果を
糧にして我々は生活しています。
そればかりか食材になった米、野菜、魚、肉なども命ある生き物です。
我々が生きていくためには他の生き物の命をいただかなければならないと
いう、決して逃れることのできない定めがあります。
我々はただ生きているのではなく、実に多くの命に生かされているのです。
その事実を強くはっきりと意識し、心に常に留めておく。
自分が存在する原因を心に意識していく。
すると因と心で「恩」という文字になります。
お大師さまはこのことに関し、
「この身は虚空より化生するにあらず、大地より変現するにあらず、
必ず四恩の徳によってこの五陰の体を保つ」
と説かれました。
祈りを捧げる時の合掌はただ手を合わせているのではなく、み仏やご先祖様
や多くの命の存在と心を合わせているのです。
合掌して「南無大師遍照金剛」とお唱えすることは、ただお願いをするため
ではなく、自分は先祖代々の命が繋がれた結果としてこの世に生み出され
その後多くの命の営みによって育まれ支えられている、
生きているのではなく、生かされているのだということを強くはっきりと
意識してご恩を知り、そのご恩に対して感謝することが
合掌の心得だと思います。
こういう時期だからこそ、感謝、ご恩、徳 に思いをよせ
生かされている私たちを意識して生活していくことは
大切なことだと思いました。
ご自愛くださいね💛
『変形性股関節症に負けないでね!』