こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

私の半世紀(小学校まで1)

2014年01月04日 | あの頃のこと…思い出話

私の半世紀といって、ここにすべてを赤裸々に書き記すことはためらわれる。
今でこそボチボチ落ち着いているものの、私も人生山あり谷ありできた。それも相当な振幅だった。
いつまで生きていられるのかはわからないが、将来ほとんどすべてを語ることができるようになったときに細かいことを忘れていると困るので、下書きというか備忘録のようなものだが、書いておこうと思う。



私は父の仕事の関係で海外で生まれた。当地の言葉がマスターできれば良かったのだが、3歳になる前に日本に来たので残念ながら何も覚えていない。日本に来る前に弟が生まれた。弟はダウン症だったが、そのことを父は母にすぐには伝えなかったらしい。ダウン症の子は顔を見たらすぐわかるが、当時はまだ知らない人の方が多かった。母は弟がダウン症だということを日本に帰ってしばらくしてから知ったらしい。

日本ではほぼ、東京で育った。幼稚園のころ、父のノミをいじっていて、誤って左手の手首を切ってしまった。いまでもその傷を縫った痕が残っている。私はこの後、よく怪我、病気をした。
小学校に上がる前、近所の小学校の校庭で逆上がりの練習をしていたら、落ちて鎖骨を折った。骨折はこのあと、数度あり小学校5年の終わりは、死にかけるほどの大けがをした。
これは、春休み前、というか卒業式前に6年生を贈る言葉、というものの練習を校舎の屋上でしていたが、小学生らしく、終わったとたん我先にと教室に戻る階段に駆け戻った。通常は、そのまま階段を駆け下りる(これだけでも十分危険)のだが、私は階段を駆け下りる級友を出し抜こうと、階段の手すりにまたがって滑り降りることとした。あいにく屋上は最上階であり、階段の手すりは上が無かった。
私は、手すりにまたがるどころか向こう側へと落ちたのだった。
気がついたら、救急車の中で、頭蓋骨の一部にひびが入っていたほか、鎖骨骨折、骨盤骨折を負い、九死に一生を得た。
この大怪我のこと、友人たちはよく覚えていて、クラス会で会うたびにネタになり、からかわれる。

今でも胃腸は強くない方だが、小さい頃はよくおなかを下していた。入院も何度かして、病院の冷たいおかゆがまずくて、おかゆ嫌いになってしまった。ホタテを食べて肝炎に罹ったこともあった。

肝炎といえば、小学校で肝油を売っていて、一度だけ買ってもらったことがあった。一晩で、全部食べてしまって父にずいぶんとしかられ、母は心配したが、結局なにごとも起こらなかった。



小学校時代の思い出は野球が下手だったこと。小学校低学年のころは鈍足だったのが、高学年になってやたら俊足となったこと。
友人の一人が脳腫瘍で亡くなり、体育の授業をいつも見学していた心臓病の色の白い子がいたことも思い出す。

私の通っていた区立の小学校の学区域には、社宅が多く、それとともに、商店街あり、古くからの住宅街あり、私のようなよそから引っ越してきた者ありと、学校にはさまざまな生徒がいた。私の家は小学校まで3、4分ととても近いところにあり、雨が降っても濡れて帰ることができた。
小学校時代の親友は一人。今ではほとんど音沙汰ないが、元気だということは他の仲のいい何人かの友人から聞いている。今住んでいる家は、仲のよかった友人の一人が某ハウスメーカーに勤めていて、そこに頼んで建ててもらった。

仲のよかった友達、とくれば初恋とくる。こないかな・・・。

コロ健の初恋の相手は、小学校一年のときのクラスメイト。
目のくりくりした、ペコちゃんのような笑顔のかわいらしい子だった。お父さんの仕事で2年生になるときに転校していってしまった。
その後、数名の女子に淡い恋心をもったものの、恋が成就することはなかった。
こののち、男子校に進学したコロ健が暗黒の時代へと突入したのはいうまでもない。



まだまだ、小学校時代の思い出というのはあるのだが、一回の記事では書ききれそうにない。
遠足で訪れた鎌倉由比ガ浜で波に足を取られてずぶぬれになってしまったこと、とか、学芸会でアリババと40人の盗賊の劇をやったとき、私はアリババで、好きだった女の子は姫でアリババをクラスの二枚目がやっていたこと、とかある。

先生もいろいろいらっしゃった。

きりがないので今日は、このくらいにしておく。