先日、妻とフラットコーテッドレトリバーのナイトと散歩していたら、こんな境界票が道路に打ち込まれていたのを妻が発見した。
宮内庁と鎌倉市の境界。
場所は、後醍醐天皇の皇子、護良親王(もりよししんのう / もりながしんのう)の墓の下の道路。
親王の墓というのはいつからあるのか知らないが、鎌倉市が制定されるより前であることはたしかだろう。
なにせ、大塔宮(鎌倉宮)が明治初年にできているわけで、すでに皇室が管理していたと思われる。
境界票があるということは、現在は宮内庁が管理しているということだろう。
親王が暗殺されたのが、1300年代、それから700年、いまもって宮内庁が管理している。
鎌倉というのは、いたるところに歴史があるが、こんなところにもあったとは、あらためて感慨深かった。
宮内庁と鎌倉市の境界。
場所は、後醍醐天皇の皇子、護良親王(もりよししんのう / もりながしんのう)の墓の下の道路。
親王の墓というのはいつからあるのか知らないが、鎌倉市が制定されるより前であることはたしかだろう。
なにせ、大塔宮(鎌倉宮)が明治初年にできているわけで、すでに皇室が管理していたと思われる。
境界票があるということは、現在は宮内庁が管理しているということだろう。
親王が暗殺されたのが、1300年代、それから700年、いまもって宮内庁が管理している。
鎌倉というのは、いたるところに歴史があるが、こんなところにもあったとは、あらためて感慨深かった。