こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

私の半世紀(小学校まで2)

2014年01月05日 | あの頃のこと…思い出話

小学校時代、勉強の方はまずまずだったが、最後まで一番にはなれなかった。
常に一クラス40人中の4、5番ぐらいだったので、たいしてできる方ではない。地元のできる子が一人ぐらい上にいたが、それ以外だと社宅にすんでいる子がよくできた。
みんな転校生で、教育熱心な家庭の子がいきなり私より上位にくるので、けっこう参ったのを思い出す。一応、地元生扱いをされていたのか、10年ぐらい前にクラス会で、「健ちゃん、地元としてよく頑張ってたよね」などと商店街出身のクラスメイトにほめられたことがあった。卒業時によくできた男子3人がいたが、3人とも東京大学に進学したのを、後に週刊誌発表の合格者名簿をみて知ったときには、妙に納得してしまった。



低学年の頃は、そろばんを習っていたが、全く上達しなかった。私はその頃から自分が理系脳ではないことをうすうす感じていたが、全くそれが原因だと思う。そして、そろばんをして理系脳が培われるかといえば、少なくとも私には全く無効で生涯文系脳で過ごすことになった。
4年生の終わりから、厳しいことで有名な地元の寺子屋式の塾に通いだした。当時はまだ、日本進学教室、通称日進が中学受験を制していた。私も日進の日曜教室に通っていたが、その塾には日進の成績上位者の常連がたくさんおり、並の成績だった私は肩身の狭い思いをしていた。
足の引っ張り合い、というか成績のいい奴が下位の人間を馬鹿にする、というのもそのときに学んだ。国語とか社会科でときどき良い成績を取ったりすると、大げさに驚かれたりしたことを思い出す。小学生をあのような過酷な状況に陥らせる中学受験というシステム、なんとかしないといけないのではないか。



中学受験では祖父の世話になった。応用自在とか自由自在といった受験参考書を読み込み、ずいぶんと一緒に問題を解いてくれた。残念ながらプロの教え方とはずいぶんかけ離れていたが、一生懸命教えてくれたことだけは今でも覚えている。
そもそも私のことをかわいがりすぎていたのだろう、叱られたことはほとんどなかった。一度だけ、あまりにも不真面目な学習態度だった私のことに、祖父の堪忍袋の緒が切れたことがあった。そのとき、祖父は怒ってコップの水を私にかけた。ほんの、コップ1杯のことだったが、祖父はのちのちまでそのときのことを後悔していたらしいと母が私に教えてくれた。



中学受験はといえば、第一志望の中学校は偏差値が届かずあきらめ、当時伸びていると評判になっていた学校を受験し、無事合格した。
合格後の成績をみると、それは無事ではなく、ギリギリだったことが明らかになるだが、中学(男子校)入学後の話は、また後日。