昨晩、帰りの電車の中で書き殴った『ブログを夜書き始めると元気が出ない』という記事、夜中に読み返したらあまりに情けない内容だったので、保留(下書きの状態)にした。せっかく生み出した文章、気にくわないからといって削除してしまうのは忍びないし、ああいう記事を書いたという記録は残しておいてもいいように思う。フェイスブックとかインスタと違い、ブログには”いいね!”がないので、コメントでも入っていなければ、保留にしてしまうことにあまり抵抗はない。とはいえ、「ならば最初からアップしなければいいのに」、と思われる方がいらしたらお詫びする。あと、今一体これはなんのことを書いているのだと思っている方がいらしたら、「1日仕事で疲れ、長距離通勤の帰りの電車の中で書いた文が、読み返すと情けなくて保留にした」のだと思ってください。
この前あった大学時代のバスケット部の集まりで、調子に乗って馬鹿話をしている私をみて、後輩の一人が「コロ健さん、ブログの中ではあんな(立派な)こと言っていて、実際はこうなんだから、一体どっちが本当のコロ健さんなんでしょうね」と呆れられてしまった。全ては同じ頭が考えていることなので、違いはなく、どちらも本当のコロ健のはずなのだけど、現実世界で言葉を発している私と、ブログの中の私は違ってみえる。それは私自身そう思うし、当然のことだ。
ええかっこしい、というわけではなく、私は理想の自分をブログの中の私に求めているところがある。いつも笑顔で、人に優しく誠実でありたい、そんな自分を実現したいと思って日々ブログを書き連ねている。でも、一部の人に自分がこういうブログを書いているということを知らせているというのは、”本当の自分はこうなんだ”と、その人たちに言い訳というかそれこそ”ええかっこしい”をしているようにも思えてしまい、自家撞着に陥る。
ここを現実世界とするか、あそこを電脳化世界の中とするか、それらは容易に逆転し、それらの境界はどんどん曖昧になってきている。そのうち、私のアバターが社会生活を送るようになる世界が到来するだろう。実際、ブログの世界には、読者というブロ友がいて、仲良くコメントをやりあったり、逆に仲違いすることもある。現実に会ったこともない人とでこうなのだから、そのうち相手が人であるかもわからなくても関係なくなってしまうかもしれない。
明るいブログもあれば、暗黒面ばっかりのブログもある。みんながみんな平和と協調を願っているわけではないということがよくわかる。ブログをそれぞれの人のアバターと考えてみたら、そういう人たちによる世界が作られていくことになるのだろう。でも、人間が人間たる最大の理由は、生身の人間は何かにつけて勘違いしたり失敗することであり、そこに人間である価値がある。戦争とか犯罪、そういったことが起こる破局点をAIを使って知り、AIを利用してそれらを未然に防ぎつつ、人間の多様性を最大限に活用していく社会というのは実現できないだろうか。
さあ、理想の自分に向かって