私、コロ健はこのブログの中で、”人それぞれだから”という言葉をよく使う。この言葉を使う自分が、”人それぞれ”なのだから心を広く持ってそれぞれの人の言いたいことを認めるというポジティブというか寛容な心から出ているのか、”人それぞれ”が勝手放題をすることをいわば黙認するというネガティブな心から出ているのか、よくわからなくなってきた。どちらかといえば後者のニュアンスが強い様に思う。というのも、最近どこかで「多様性などという言葉で、わがままが許されている」というような文章を目にした時、嫌悪感を抱いたと同時に、自分にもそれに同調する感情があることに気がついたから。
”人それぞれ”を野放図に認めたら、社会秩序は保たれずシステムは崩壊する。国家でも会社でも部活動でも、あらゆる”組織”はある程度の強制力をもって”人それぞれ”の考え方を捨てさせなければ強大な力はつかない。
では、その強制力とは何か?
国家のためだというのなら、それはお国のために滅私奉公働くことなのか。一億総活躍社会は言い方を変えた国家総動員思想だといえるけど、人口減少社会の日本が世界レベルに踏みとどまるには、少しでも多くの人が働くことによる労働力の維持しか残されている道はない。でも、過労死問題は滅私奉公を否定して、ゆとりある労働を目指している。そうなると量より質となるが、それならどのような労働環境が効率がいいのかわからない。命を落としたり精神を病んだりしない範囲であればある程度の無理は仕方ないようにも思う。医師の労働環境も問題が多い。残業するのが当たり前で、残業代は頭打ちなんていうのが当たり前でやってきた。病理も当直はないが、毎日夜10時11時まで働くのが当たり前だった。私個人としては、それはいい思い出となっているし、その時がむしゃらに蓄えた力が近年の環境の変化にも程度対応させてくれたと思っている。でも、それがどのように評価されるべきものなのかはわからないし、若い医師が労働環境の向上を口にするのが間違っているとも思えない。
時代は変わった、考え方は変わった、と言うのはあまりにも当たり前で簡単なことだ。でも、それはどう変わったのか?それは全体の幸福を実現するものなのか?という検証はあまり聞こえてこないが、それは私がその言葉に注意を払っていないだけなのかもしれない。
社会には情報が溢れ、考え方が溢れている。これからの”人それぞれ”が尊重される社会はどのようなものとなっていくのだろうか。個人とは何か、自由とは何か、定義が変わりつつあるように思う。
自分の立場も変わったし