ふたご座流星群が”極大”とのことで昨夜、妻と娘と流れ星を探した。雲ひとつない鎌倉の夜11時前後は寒かったけど、15分ほどの間に4個ほど流れ星を見ることができた。
流れ星を探すのが精一杯で、願いを込めることは難しかった。一緒に夜空を見上げていた妻たちと”あ、みえた!”と互いに言うばかりで、気がついたら肝心の願い事をつぶやくことを忘れていた。それでも4個と、まずまずの成績に満足できたので、星に願いを託すことはあきらめ、それより風邪をひかないうちにと部屋に戻った。
寝床に入り、星が白い小さな点にしか見えない写真をFacebookにアップしてから寝た。明日はこれにどれぐらい”いいね!”をもらえるか、そんなことを思いながら灯りを消した。そして、眠りに落ちる前に星に願いを託せなかったことまた思った。
(星が白い小さな点にしかすら見えない写真)
最近、”いいね!”に限らず、何かにつけて願い事が増えているように思う。犬の散歩で近所の神社の前を通るときにもいちいち頭を下げて、あれこれ願っている。もちろん、神社の前でなくても、のべつあれこれ願いが頭をよぎる。
願いとは、将来への展望というか希望であり、そのことを念じなければそれが実現することはない。幸運は道端に落ちてはいないし、ましてや向こうからこちらに転がってくることはない。
でも、いつも同じようなことを願うようになってはむしろ執着と言えるのではないか、と感じることもある。
願望と執着心。広辞苑で調べると、願望は”願い望むこと”、執着は”強く心をひかれ、それにとらわれること。深く思い込んで忘れられないこと。”とある。両者が紙一重のものなのか、願望の延長が執着なのか、境目を見極めるのは難しい。
地位、金、名誉といったようなものは、医者としての本質的な目標とはなり得ない。医者がそういったものを得ることを連綿と欲するようになったら、それが執着と呼ばれるようなものだ。医者としての日々の仕事を遂行していく上で、それらが自らに十分足りていると納得して生きていくことができたらそれは医者として十分満足すべきものだと思う。
さらには、希望を持つことすら許されない人が世界にはたくさんいるのに、この国の多くの人は、そんなことを口にすることができるだけで幸せだということを知っているべきだ。
昨夜の流れ星は、私の心の中の執着というか欲望を気づかせてくれたうえ、謙虚でいることの大事さを知らせてくれた。
それこそが流れ星からの何よりの贈り物だった。
この気づきを忘れないように