昨日の記事の続き。
研究費獲得のための申請書の書き方だの、ラボの運営だの、文科省や厚労省の補助金の減額だの配分の問題だの、といったシステム的なことで改善しなくてはいけないことは少なくない。”科研費獲得のための申請書の書き方の指南書”なんていうのをみると、首を傾げてしまう。
しかしながら、問題はシステムのことではなく、個人レベルにもある。データの改ざんのみならず、データの盗用、研究妨害など不正はいくらでもある。研究者本人が知らないうちに他の研究者が別の細胞を混入させ、その結果ノーベル賞級の研究成果となってしまった、なんてことがこれまでにあったかもしれない。
こんな不正ばかりしていたら、研究者などそのうちAIに駆逐されてしまうのではないだろうかと心配になる。いや、少なくとも手を動かすことは人間がするとしても、様々な予測の大部分はAIによって行われるようになるのではなかろうか。そして、AIが予測する研究を人間が行う。実際、そんな時代がもうすぐそこまで来ている。次世代シークエンサーの出現によって、研究者というよりはシークエンサーの出した結果を解析する、オペレーターみたいな人を見かける。
機械はインチキができないけれど、人間はインチキを思いつく。一度でもインチキに手を染めてしまったら、その科学者はインチキの上にインチキを重ねていかなくてはいけなくなる。
詐欺師と同じだ。
そして、インチキを何とか正しいものにしようと、理不尽な説明をつけることに腐心するようになる。そうなればAIに”これが正”として自分ででっち上げたデータをインプットするようになるかもしれない。機械にインチキはできないけれども、インチキを補完することはできる。ここで問題なのは、自分でたてた予想仮説ではなくて、インチキに基づくデータを真実としてでっち上げているということで、その先において研究者は機械の下僕となっていることに気がつかないまま、インチキな研究を続けることになる。
私は、日々病理診断をしていて様々な疾患を目の当たりにし、その多様性に驚く。もちろん、乳癌なら乳癌、胃癌なら胃癌に共通した所見はあるけれど、それぞれの組織像は一つとして同じものはない。乳房や胃の大きさに大小はあっても基本的な構造は変わらない。でも癌細胞の広がりは症例によって全く異なる。目の前には現実しかないのだ。そしてこれが病気の多様性-dibersity-であり、医者が必要となる理由だ。今の自然科学研究費の相当な部分が医学に端を発する、生命科学研究に充てられていると思うが、それらの研究は研究室のベンチで行われているだけではいけない。
新規の遺伝子を発見した、もしかしたらそれは癌の発症の”一部”に関与しているかもしれない。では、追いかけてみよう。その先には数多くの困難がある、けれどもそこでインチキに手を染めてはいけない。もしデータをでっち上げたくなったら、勉強する方向を変えてみたらどうだろう。例えば、病理の勉強をするのもいいと思う。ほんの1,2cm四方、厚さ数μmの組織しか載っていないけれど、病理標本には疾患そのものが詰まっている。
謙虚で誠実な研究者に対して病理医はそのための協力を惜しむことはないと思う。ある意味、それが病理医の仕事でもある。
真実は一つしかない