(先週からの続き)
この話、病理医としての技術的な問題になる。客観的にみて私自身がどれほどの報告書を書けているのか全く自信がない。臨床医のように生身の人間を患者として扱ってご本人から、「先生のお陰ですっかり良くなりました、ありがとうございます。」などと言ってもらったら自信も持てるだろうが、病理医の場合は違う。お礼を言ってくれる人なんてどこにもいないし、診断はもちろん100パーセント正しいことが前提だ。せいぜいできることと言ったら報告書を書き上げた時に、丁寧に読み直して誤字・脱字の有無をチェックするぐらいしかやりようがない。
定型文を用意して、そこに所見を落とし込むというのは多くの病理医がやっていること。でも、同じ病名がついているからと言っても、一人一人所見は異なる。それらを十把一絡げに同じような診断文で片付けるのも気がひけるが、結局治療法が同じ範囲となるようであればそれでお終いとしてしまう。
生検診断であれば、それがどこから取ってきた組織で、そこに腫瘍があるか無いか、腫瘍があったらどんな腫瘍か、一般的な腫瘍なのか、それとも珍しい特殊な腫瘍であればその詳細。手術検体の診断でも書くことは似たようなものだ。付け加えるとすればリンパ節転移の有無とか切除断端の所見、すなわち腫瘍が取り切れているかどうかといったようなことだ。そのようなことを定型文に落とし込み、多少追加項目を書いていけばんそれで用は足りる。これらのことを一から書いていくと、どこかで書き忘れが生じてしまう。定型文を使うのは仕方がないといえば仕方がないことなのだ。症例によっては臨床的な事項に踏み込むこともある。そんな時注意しなくてはいけないのは、そうすると臨床医にはよりわかりやすくなるけれど、病理のことが手薄になってしまうこともあるし、知ったかぶりをしてトンチンカンなことを書いたら赤恥をかく。
こういうことを考えていくと、腕のいい病理医とは一体どんな医者のことをいうのだろうということに行き着く。見立てはいいけれど、診断書の文章はおざなり、とか、ある病気のことはよく理解しているけど他の疾患については今ひとつ、とか、臨床医と仲が悪い、などなど病理医も十人十色で一長一短で、腕の良し悪しの評価も難しい。病理医として、患者、臨床医に対して誠実な気持ちを持って日々の診断業務を行っていくことが、病理診断報告書を上手に書く何よりの近道だろう。
(このシリーズは一旦終わり)
経験と勉強と