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昭和20年8月6日午前8時15分。
爆心地の地表温度は3000~4000度に達し、ものすべて解けてしまいました。
爆風は、爆心地で秒速440mと推定、最強台風の7倍の風速です。
原子雲(きのこ雲)は14000mの成層圏まで達したのは前回の写真の通りです。
地表温度の3000~4000度がいかなるものか、鉄さえ溶かす温度です。
例えるなら、スイッチオンされた電子レンジの中にいるようなものだと聞き、身震いしました。
爆心地にいて生き残った人は10名程度と言われています。
地下に居られたなど奇跡以外のなにものでもないです。
かつて歓楽街であり民家が立ちならんでいたという消えた中島の街を南下していきます。
世界の人々が祈りに訪れています。
手を合わせて時間を過ごし、さらに南に歩いていきます。
生徒たちのこころに刻まれたものがあるはずです。
振り返ると原爆ドームが見えます。
逃げるように南へ向かいます。
四國五郎さんが描いた『嵐の中の母子像』
私も嵐から遠ざかるようにさらに南に逃げていきます。
平和大橋西詰に向かいます。
慰霊碑です
広島市高等女学校です
原爆で亡くなられた在職、在学者の名簿です。
市女の犠牲者
現在の平和記念資料館~平和大通り一帯(爆心地から約500m。当時は材木町(ざいもくちょう)~木挽町(こびきちょう))の建物疎開作業に来ていた1、2年生541人、職員10人は、全員が亡くなりました。
同校では他の動員先を含め、676人が被爆死し、市内の学校では最も多くの犠牲者を出しています。(碑の裏の短歌作者は当時の校長です。)
レリーフの説明
中央でE=MC2と刻んだ箱を抱え、天使の翼をもつ制服・モンペ姿の少女は犠牲となったことを表し、両側から友のささげる花輪(慰霊)とハト(平和)に守られています。
「E=MC2」
原爆の原理になったアインシュタインの相対性理論からとられた原子力エネルギーの公式です。連合軍の占領下、「原爆」という文字が使用できなかった当時の事情を表しています。
ネットより https://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/map/irei/tour_35.html
黙とう。
広島市高等女学校は現在の県立舟入高等学校です。この慰霊碑からⅠkm余り南にあります。
私がこの高校の名を知っているのは岡山で行われた高校生の陸上競技大会で中距離で優勝した女子選手の高校だったからです。
ダントツで優勝していました。
気になって検索をすると、広島出身の短距離選手の山縣亮太さんが舟入高校を学校訪問していました。
母校訪問かなと思いましたが彼は修道高校出身です。
そうかリクルートだったのかと推測してしまいました。
※この慰霊碑に使われている石材は万成石です。私の実家の裏山から掘り出されたものです。
お読みいただきありがとうございます。
ウクライナに平和を!