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北海道4日間のツアー旅行中に、明治期以降の人々の営みに
ついては眠たくなるほど聞いたが、先住民のアイヌことは、
地名の由来でしか聞かなかった。
観光客にはアイヌについて興味などないだろうと思われたか、
またはとても簡単な話ではない、と考えられたかは不明だ。
しかし、ほとんどすべての地名がアイヌの言葉から来ており、
今では、その地名の名付け親が、その地にはいないということが、
どのようなことなのか。気になる人間もいるのだ。
アイヌ。その歴史はどのようだったのか。
私はほとんど知らない。
かって、アイヌの村コタン(観光用)を訪れている写真を
見た記憶がある。今は聞かない。
アイヌを観光の対象にすることが問題になったのだろう。
1960年代に、アメリカ先住民が見直されていった。
これは、マイノリティの立場からの歴史の再構築ということに
なるのだろう。
そのような試みが北海道でも行なわれたと聞いたことがある。
アイヌ民族がどのような経緯で北海道周辺に住むようになった
かは考古学的資料をもってしても明らかではない。
アイヌ民族の先人は、1万年以上前、大陸と陸続きだった頃、
大陸からマンモス象を追ってきた旧石器人であろうと
いわれている。
旧石器時代→縄文文化→続縄文文化→擦文文化と続く。
もちろん、縄文文化の後は弥生文化となっていくのが、
「わたしたち」の教科書に書かれていることだが、稲作のない
北海道は、独自の文化を形成されていく。
また、擦文文化と同時期にオホーツク文化人が渡来し、道北に
独特の文化を形成したという。
オホーツク文化は鎌倉時代に突然姿を消し、その擦文文化も
また変わって独自のアイヌ文化が全道に形成された。※
では、和人と呼ばれる本州人が北海道に渡るようになったのは
いつ頃だろう。
古墳時代の後期説がある。
「記紀の記述を多少信じうるとすれば、この時代に安部臣が
北海道に渡った」という。※2
津軽半島からは北海道の山々が見えるのだから、渡ろうという
意志が働くのは当然である。
この時代は、稲作伝播が日本全土に広がってきており、
北海道にもそのような試みがなされたのかもしれない。
しかし、稲作は不適な土地だということがわかった。
それから後、和人は交易の目的で北海道に渡ることになる。
これからがこの文章を書き始めた意図とつながっていく。
すなわち、「わたしたち」の先祖は、どのように隣人と接して
いったのか。
いやいや、この「わたしたち」というのはだれのことだろう。
なにをもって「わたしたち」という「ひとくくり」ができるのか。
「辺境」「異境」「異界」ということばがそれを解く鍵になるのか。
うーん、どんどん課題が大きくなる。
でもマイペースで書いていこう。
※1「北海道の歴史散歩」北海道歴史研究会 山川出版社
※2 司馬遼太郎の「北海道の諸道」
新たに近くの図書館から借りてきた本。
「古代東北の王権」中路正恒 講談社現代新書
「明治という国家」司馬遼太郎 日本放送出版協会
「蝦夷の古代史」 工藤雅樹 平凡社新書
「日本をめぐって」 網野義彦 講談社
「網野義彦を継ぐ」 中沢新一 赤坂憲雄 講談社
つづく。
ついては眠たくなるほど聞いたが、先住民のアイヌことは、
地名の由来でしか聞かなかった。
観光客にはアイヌについて興味などないだろうと思われたか、
またはとても簡単な話ではない、と考えられたかは不明だ。
しかし、ほとんどすべての地名がアイヌの言葉から来ており、
今では、その地名の名付け親が、その地にはいないということが、
どのようなことなのか。気になる人間もいるのだ。
アイヌ。その歴史はどのようだったのか。
私はほとんど知らない。
かって、アイヌの村コタン(観光用)を訪れている写真を
見た記憶がある。今は聞かない。
アイヌを観光の対象にすることが問題になったのだろう。
1960年代に、アメリカ先住民が見直されていった。
これは、マイノリティの立場からの歴史の再構築ということに
なるのだろう。
そのような試みが北海道でも行なわれたと聞いたことがある。
アイヌ民族がどのような経緯で北海道周辺に住むようになった
かは考古学的資料をもってしても明らかではない。
アイヌ民族の先人は、1万年以上前、大陸と陸続きだった頃、
大陸からマンモス象を追ってきた旧石器人であろうと
いわれている。
旧石器時代→縄文文化→続縄文文化→擦文文化と続く。
もちろん、縄文文化の後は弥生文化となっていくのが、
「わたしたち」の教科書に書かれていることだが、稲作のない
北海道は、独自の文化を形成されていく。
また、擦文文化と同時期にオホーツク文化人が渡来し、道北に
独特の文化を形成したという。
オホーツク文化は鎌倉時代に突然姿を消し、その擦文文化も
また変わって独自のアイヌ文化が全道に形成された。※
では、和人と呼ばれる本州人が北海道に渡るようになったのは
いつ頃だろう。
古墳時代の後期説がある。
「記紀の記述を多少信じうるとすれば、この時代に安部臣が
北海道に渡った」という。※2
津軽半島からは北海道の山々が見えるのだから、渡ろうという
意志が働くのは当然である。
この時代は、稲作伝播が日本全土に広がってきており、
北海道にもそのような試みがなされたのかもしれない。
しかし、稲作は不適な土地だということがわかった。
それから後、和人は交易の目的で北海道に渡ることになる。
これからがこの文章を書き始めた意図とつながっていく。
すなわち、「わたしたち」の先祖は、どのように隣人と接して
いったのか。
いやいや、この「わたしたち」というのはだれのことだろう。
なにをもって「わたしたち」という「ひとくくり」ができるのか。
「辺境」「異境」「異界」ということばがそれを解く鍵になるのか。
うーん、どんどん課題が大きくなる。
でもマイペースで書いていこう。
※1「北海道の歴史散歩」北海道歴史研究会 山川出版社
※2 司馬遼太郎の「北海道の諸道」
新たに近くの図書館から借りてきた本。
「古代東北の王権」中路正恒 講談社現代新書
「明治という国家」司馬遼太郎 日本放送出版協会
「蝦夷の古代史」 工藤雅樹 平凡社新書
「日本をめぐって」 網野義彦 講談社
「網野義彦を継ぐ」 中沢新一 赤坂憲雄 講談社
つづく。