昨日の記事の続きでもあるけれど、
この言葉は、スノーボード・ハープパイプの国母和宏選手についての書かれた
朝日新聞(3月4日付)の記事の見出しです。
書いた人は、精神科医の斎藤環さん。
「一連のメディアスクラムめいたバッシングは、かつてのイラク人質事件を彷彿させた」
「批判を煽るかのように繰り返される『不適切な服装』や記者会見のシーン。
すでに行為そのものはきちんと処罰されているにもかかわらず、本人に謝罪会見をさせ、
両親や関係者にまでコメントを取りに行くマスコミ。
いつものこととはいえ異様な風景だ」
いつものこととは、いつまでたっても変わらない私たちのメンタリティの仕業のこと。
国保選手のヘアスタイルからファッションをみれば、問題といわれた着こなし方のほうが
よく似合っている。
彼がファッションページを飾るなら、あの着こなしの方が断然よい。
それが、五輪の選手らしからぬというなら、改めればいいだけの話。
これだけの話がなぜ本人や家族を過剰に苦しめるようなバッシングにつながるのか。
世間にとって、世間自らが「気が済む」ことが重要なのだ。
品のない言葉でいえば「ざま-みろ」と言って溜飲を下げるのである。
世間(=人間)のもっている嫌な部分がバッシングに現れる。
「世間は人を罰しない。世間がするのは『気が済む』まで『恥をかかせる』ことだけだ。
家族ぐるみで恥をかかされた人間は『反省したふり』をしても、本当に反省することはない」
もちろん、世間はわかっている。それでも、ただただ人を貶めたいのだ。
このような心が、私たちにはある。
このことをしっかり胸に刻んでおかなければならない。
コメントありがとうございます。
本日の愛子ちゃん報道にはびっくりしました。
またまたマスコミが飛びつき世間の好奇の目に
曝されるのでしょうね。
犯人探しが始まるのでしょう。
HKまで7時のニュースで報道していました。
情けないことです。
極端かもしれませんが,昨今の報道と国民との関係を見ると,報道は「リークを考えずに垂れ流し」,国民は「考えずに流される」ような関係に見えます。
もっと「考える」ことを,報道関係者も国民一人ひとりも丁寧にしていかなければ,と思えてなりません。