岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

瀬戸内の真珠 「鞆の浦」

2016-05-29 22:40:35 | 日本の仲間

瀬戸内海の湊といえば、まず第一に上がるのが「鞆の浦」です。

どこまで遡れるのかわからないほど古い湊です。

福山市に属します。

広島市と岡山市のちょうど中間に位置します。

もちろん広島県第2の都市です。

しかし経済や文化面で考えれば、岡山に近いのではないでしょうか。

福山は、吉備の国です。吉備は備前、備中、備後に分かれるわけですが、備後とは今の福山です。

福山は明治期は小田郡と呼ばれたそうです(鞆の浦の高齢の方の話を聞く機会がありました)。

小田郡といえば、岡山県の西部のことだと思っていた私はびっくり。

帰って調べてみると少し長いのですが引用します。WIKIからです。

1871年(明治4年)、廃藩置県後の第1次府県統合により備中国の10県および旧備後国福山県を統合して設置され、備中国全体と備後国東部6郡を領域とし、中国地方山陽道でも有数の石高人口を抱える県であった。

この県は最初、深津県と称していたが、これは当初県庁を深津郡福山町(現在の広島県福山市)の福山城に置く予定であったためで、県名はその郡名に由来する。だが、幕府譜代領の福山の地に県庁を置くことをよく思わない新政府の思惑により、小田郡笠岡村(現在の岡山県笠岡市)の幕府笠岡代官所跡に変更となる。その後、1872年(明治5年)に県名は県庁がある笠岡村の郡名から小田県に改称となる。

しかし、1875年(明治8年)、この小田県全域が岡山県に統合されたため廃止された。さらには、1876年(明治9年)の第2次府県統合で、備後国側の地域(現在の福山市と尾道市東部の一部・府中市の大部分と神石高原町に当る地域)が岡山県から広島県に移管され現在に至る。

古老のおっしゃる通りでした。

明治初期は行政もてんやわんやだったことがわかります。

朝令暮改は当たり前だったのでしょう。

では鞆の浦はどうだったでしょう。

明治期には沼隈郡と呼ばれ郡役所が鞆にあったそうです。

この地方の中心だったことは明らかです。

鞆の浦は、JR福山駅からバスで30分ほど南下します。

鉄道から離れていることが、江戸や明治の街並みが残ることにつながります。

瀬戸内海では玉島、牛窓、室津などの湊が同じように面影があります。

鞆の浦がもっとも色濃く残っているように思います。

古老によれば、当時の歴史的な遺産として、5つあるそうですが、すべてが現存するのが鞆の浦だそうです。

常夜灯、雁木、番所、そのほか2つあるそうですが忘れました。あきませんね。



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