戦時下の京都大学荒勝文策教授の研究室での原爆開発の様子を描いていました。
海軍からの依頼ですが、強制的といっていいでしょう。
しかし、米国で進められていた「マンハッタン計画」とは比較にならないほどの規模でした。
原爆などとても作れるレベルではありませんでした。
ドラマは、戦時下の人々の苦悩も描いていきます。
そして、「研究者たちの葛藤」が大きなテーマです。
荒勝文策教授の活動成果は、原爆投下直後に広島に入り新型爆弾が原子爆弾であることを特定したことです。
また主人公が京都市への原爆投下される場合に備えて比叡山に登るシーンがあります(比叡山登山道の雲母坂で撮影されています)。
京都市は原爆予定地から除外されていましたが、戦況によっては可能性があったことは事実です。
以下はWIKIより転載です。
1941年5月、日本海軍より原子核分裂の技術を用いた爆弾の開発を依頼された。時期としては、アメリカの原爆開発開始と比べても決して遅れたものではなかった。この計画には湯川秀樹らも加わっていた。一方で、日本陸軍は理研の仁科芳雄に原爆の開発を依頼し、「海軍-京大」「陸軍-理研」という2つの研究開発が別々に並行して進められた。もともと工業力や人的資源の厚みに劣る日本にとって、このような計画は無謀であったと言えよう(詳細は日本の原子爆弾開発を参照)。
広島に原爆が投下された後の8月10日、彼は広島入りしている。当日、大本営が現地で開いた会議に仁科芳雄らとともに出席し、会議で新型爆弾は原爆と結論づけられた[1]。同日夜に広島を出て京都に戻り、12日に持ち帰った土壌サンプルからベータ線を測定した[1]。8月13日に再び広島でベータ線の特性を調査し[1]、8月15日には、土壌の強い放射能などのデータから、広島の被害は原子爆弾によるものであるという報告を海軍に提出した(「広島被爆地土壌等調査結果及ビ判定ノ概要」)。この報告には、「核分裂ヲオコセル『ウラニウム』ハ約1kg」という分析結果があり、ほぼ正確に実態をつきとめていた。科学的な裏付けに基づいて、原爆投下を受けたという確信を日本側が持ったのは、このときが初めてであった。荒勝が広島から持ち帰った土壌サンプルが遺品に含まれて保管されていたことが、2015年6月に報道された[1]。
なお、当時助教授だった木村毅一によると、広島から京都に戻る際、荒勝は京都に3発目の原爆が投下されるという噂(実際に米軍は京都への投下構想を当初より抱いていた)に接して「原子物理学者としてこれは千載一遇の好機だ。急いで比叡山の頂上に観測所を造って、原爆投下から爆発の状況など、あらゆる角度から、写真や計器を使って徹底的に観測してやろう」と述べたという[2]。
転載終わります。
核兵器廃絶を!
お読みいただきありがとうございました。